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副作用

 放射線治療が2週目に入りました。月から金まで通って、最長あと3週です。副作用は「疲労感」なんです。コメントへのお答えは明日以降します。お休みなさい。
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by lumokurago | 2009-08-31 19:45 | 転移がんの治療(無治療)

何も考えていない国民

 東京8区(杉並区)で百万に一つも保坂のぶと(社民党公認・民主党推薦)が石原のぶてるを破ったら、今度こそ国民が自分の頭でまじめに考えたことになると思っていた。でもやっぱり違った。

 福田元総理が民主党の無名美人候補に負けたのだから、のぶてるも負けても不思議ではなかったのだ。ただただ対立候補が社民党ではなく、民主党の無名美人候補だったら。(先ほどNHKでこの民主党候補の当確を出したのだが、誤報だったようで、福田が当選した。しかし閣僚が何人も落選したのだから同じことだろう)。

 無名美人候補と「国会の質問王」保坂の実力の差は明明白白である。保坂はただ、民主党でなかったから負けたと思う。つまり国民は候補者の中身など何も見ていないのである。

 横須賀では小泉の息子が当選した。これも国民が何も考えていないことを証明している。小泉元首相に批判的になっていれば、息子に投票するはずもない。つまり小泉元首相がこの国に対して何をしたかが全くわかっていないのである。

 この選挙結果は、4年前の9.11の裏返しである。この国は今後もろくなことはない。国民が自分の頭で考えていないから。

 そして小選挙区制自体、間違っている。

 民主党はどこかからかきあつめてきた新人議員がおおぜい当選したが、彼ら彼女らのほとんどに能力があるとは思えない。区議会議員でさえ、大多数が全くの無能なのである。

 当選した議員は当選した責任として、国政のすべてを猛勉強する義務がある。
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by lumokurago | 2009-08-30 22:27 | きままながん患者

せっかく美しい大雪を取材したのに

 今、NHKで大雪山をやっていました。真夏でも厚さ25mもある雪渓の謎を解き明かすのはいいけど、せっかくあの美しい大雪を大がかりに取材したのに、ゲストが何人も出ておしゃべりして時間を取られ、美しい映像を流した時間が短すぎ。しかも同じ映像を2度使っていました。

 「うるさい! ひっこめ!」 とテレビに向かって怒鳴りつけてやりました。(この頃よく、テレビに向かって「死ね」と言ったりして、ストレス発散しています)。

 旅番組なども、食べ物ばかりで景色などほとんど出さないし(だから全く見る気がしない)、このあいだも検査に行ったクリニックにあった写真雑誌に「パラオ」と書いてあるのが見えたので、見てみたら、ホテルの宣伝ばかりで、景色の写真はただの1枚もありませんでした。日本人の感性、狂ってるね! というか、私の感性がすでに「化石」なのでしょう。もうすぐ退場もちょうどいいと思います。こんな世の中、とてもついていけない。

 非常に珍しく楽しみにしていた番組なのに、がっかり・・・。
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by lumokurago | 2009-08-29 23:18 | 自然 (nature)

いま多喜二を語る意味 ―新たな戦争と貧困の時代に その6

現実を正確に捉えられる言葉とは

 それで2002年から多喜二さんを追求してみよう、この人はどういう時代にどう生きて、何を考えてこういうことになったんだろうということを自分で考えて、それをできたら文章にしていこうと思ってきたわけです。今までずいぶんバカにされました。今でもたぶんバカにされていると思いますが、今、アメリカは大変ひどい経済状況になっているのですが、日本語の「格差」という言葉に匹敵するキーワードがないわけです。キーワードがないと現実を捕まえる、捉えることができないということもあって、アメリカでは格差ということがみんなの意識にしっかり身につけられていない。だから格差とかそういう意識がないところで、小林多喜二を研究するということはバカにされることで、今でも若干あるわけです。

 でも、日本では違ってきた。格差社会を現実として受け止めて、はたして格差という言葉で十分なのだろうか。今の日本を捉えるのに、階級という言葉を避け続けるために格差が出てきたのかなと。

 先ほどの「怒り」とつながってくるのですが、格差という誰でも認められる言葉はとても大事なんです。それからいろんな人が入って来られる運動もとても大事だし、できるかぎりそういう運動であるべきだと思います。もしそれが狭い政治性を持つことによって人を排除する、入りにくいものにしまうのであったらだめですが、政治を避けることによって、政治的という言葉を避けることによって現実を捉えられなくなってしまうのであればそれは大きなロスだと思うので、その辺も、どういう言葉を使えば現実を一番正確に捉えられるのかという問題なのです。

どういう政治性を私たちは求めるべきか

 さきほどの原爆反対といった時に北朝鮮を持ち出したいと言ったのもやはり、そういう意味での政治というのは、絶対私たちは切り捨ててはいけないと思うのです。政治は私たちの生活の根幹を、基準を与えるものだからです。私は政党政治も重要だと思いますが、政治を政党政治だけに区切るのではなく、政治はわれわれの経済にあり、経済は生活、生活は精神でもあるということを常に念頭に置いて、どういうふうに政治的であるべきか、どういう政治性を私たちは求めるべきかということを、多喜二のように意識しなければならない。それを常に現実によって変化させるようでなければならないと思います。

 一つの立場に自分はコミットしたからその立場を批判しないとか、変更しないということではなく、多喜二自身は常に自分の作品で議論を求めていましたし、批判を求めていました。過去の作品は野のクソのようなものであって、自分は見たくもない、自分は次のものを書きたいと語っています。私たちも自分がコミットしたものが何であって、実践に移す時にどういうところを変えるべきなのか、そういう準備を常に身に付けていきたいと思います。

9条から環境問題へ

 最後に今の9条の状況と戦争と貧困の問題ですが、もちろん多喜二にとって戦争と貧困の問題は切っても切れない関係です。新潮社の文庫は『蟹工船』と『党生活者』が入っているので、両方をぜひ読んでいただきたいのですが、『党生活者』の中で、毒ガスを使うことを軍は決めていて、毒ガスのマスクを作る工場で運動を繰り広げるということを描いていて、マスクを大量に作らなくちゃならないので臨時工をたくさん取るわけですね。

 戦争には反対の意識をみんなに説得したい。臨時工も正社員になりたいわけで、正社員は競争相手として維持されているけれども、臨時工と正社員の連帯を求めている。それがどれほど大変であるか。その上に反戦を乗せたらさらにどれほど大変になるか。そういうことを彼は『党生活者』で描いているのでぜひぜひお読みになって下さい。

 9条の問題ですが、9条の会の会員になっている人は全国で増えているわけですが、北朝鮮問題を直視しなければ9条もなかなか進まないと思います。私も絶対9条を支持しています。これをあきらめてはいけない。どんなに今の時点で形骸化されたとしても、改憲したい人たちがいる限り守らなければならない。

 今、形骸化された9条を確保して、形骸化された部分をこれから取り返していくというのは、私たち共通の理解だと思いますが、そこにもう一つ関わっているのは環境、ゴア副大統領がいう地球が我々の唯一のホームだということ。そうですよね、地球しか今のところ住む所はないんですから。

 軽い話なんですが、今回、ユナイテッド航空で―この会社は破産したのですが―、エコノミーだったのですが、なぜかビジネスクラスの入口に案内されて、ファーストクラス、ビジネスクラスを抜けてエコノミーの席に行ったら、ムーっとしてくるんですね。遅れて何10分も待たされたんです。パイロットが口を滑らせて、後部の方に座っている方たち、暑いでしょうが今エンジン一つかけたからもうすぐ涼しくなると思いますって。ユナイテッドが経費削減のためにエンジンを直前までかけない、だけどファーストクラス、ビジネスクラスはいくらなんでもそれはできないのです。

 後から客室乗務員が「みなさん、お暑いけれど、クーラーの故障は今直りましたので」と、全く違ったストーリーが出てきたんです。この飛行機を地球に例えれば同じなんですよね。ファーストクラス、ビジネスクラス、エコノミーと食べ物も全く違っていて、それも不快に思っていたんですが、一つの同じ空間に入っていて、こちらは快適で、こちらは汗を流してすし詰め状態で。これは今の地球です。

 90歳のアメリカの有名な科学者が公共放送で言っていましたが、未来の地球には人類が助かる地域があって、ニュージーランドが一つでアイルランドが一つで、今いる人たちやそこにたどり着けた人たちはいいけど、後で海から這い上がってくる人たちを落としていかなければならない。非常に醜い争いが想像できるわけです。

 バデューさんが想像しているような戦争ではなく、フランス人の核に対する無頓着、フランスの核は安全だという神話がまかりとおっているということもあります。バデューさんがそうかどうかわからないですが、それは地球の絶滅というものに関わっています。反原爆と原発も区別されているけれど、私はその境界というのは納得できないし、反原爆といった時に北朝鮮を語る。そういうことが私の、本当に答えは出せないし、具体的にどうしようということはないのですが、儀礼で終わらせない8月を、今度の選挙もどういうことを言えるのか、そしてマスコミにどうやって訴えるか、マスコミの良心と軽く言われるのですが、どうやってそれを実現できるのか、みなさんのご意見をお聞きしたいと思います。どうもありがとうございました。

終わり
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by lumokurago | 2009-08-28 17:29 | 社会(society)

消えた!

 ノーマさんの記事が途中になっています。「党生活者」(小林多喜二)に関する部分が不明なので(記事というのはテープ起こしであっても自分が理解していないと書けないものですね)、「党生活者」を買って読みました。

 そしたらものすごい違和感!! 大好きなノーマさんですが、なぜ「党生活者」を評価するのかわけがわかりません。「蟹工船」も読まなくてはと思っています。

 それで「ノーマさんと『党生活者』」という題で、きちんと書こうと思って、だいぶ書いたのですが、手違いで消えてしまいました。それに別な用で使いたいプリンターも故障。

 というわけで、今日はお休みです。

 「党生活者」、私は大嫌いです。ああいう運動のやり方を全く認められないし、主人公が妻に対するやり方も最悪です。どうしてノーマさんはこれがいいと言うのか??? 理解できない。悲しいです。
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by lumokurago | 2009-08-27 23:11 | きままながん患者

正直な近藤先生

 昨日から放射線治療が始まりました。今日は血液検査の結果が出たのですが、去年の11月には正常範囲内だった腫瘍マーカーが急激に上がっていました。そのせいかどうか・・・、近藤先生の表情が固まっていて、私より深刻になっていました。私、もう長くないのかなあ・・・。患者一人一人にこのように思い入れていたら医者として身が持ちませんよね。論争にはめっちゃ強くて、誰がなんと言おうと崩れない孤高の人なのに。

 なので、質問好きな先生に質問しました。それでお互いに平静さを取り戻しました。

 近藤先生、こんなとこに書いてごめんなさい。私の思いすごしならいいのですが・・・。

 近藤先生の患者でよかった。
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by lumokurago | 2009-08-26 22:19 | 転移がんの治療(無治療)

元気です

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 わたしはママが心配で、どこ行くにもついていくの。
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 ママは腰が痛いので、おうちにいる時は寝てばかりだけど、外にいる方が気がまぎれるからと写生に行っちゃいました。元気だなあ。
 ま、痛いだけでどこも悪くないらしいから、ぼくは安心してるんだ。
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 相模湖
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by lumokurago | 2009-08-25 22:30 | ねこと鳥 (cats&birds)

東久留米市教育委員会傍聴記

 いろいろなMLで流されている傍聴記です。これが当たり前なのに、これを読むと涙が出てくる・・・。杉並区教委、横浜市教委、愛媛県教委、滋賀県教委、大田原市教委、東京都教委がいかに狂っているか!! また、それを許す<時代>が心底恐ろしい。

*****以下転載

 一昨昨日8月19日は、我が東久留米市の平成22・23年度中学校使用教科書の採択日でした。(同時に22年度の小中学校特別支援学級使用教科書の採択も)

 傍聴席はほぼ満席。ジジババばかりではない、盆明け早々だというのに中年、若者もほどほどに…。市にある自衛隊のOB組織のメンバーも数人居た、と終ってからお隣に座ってた人が…。
 
 “今日は何時になく多くの方々の傍聴で”とは座長の教育委員長の発言。子どもたちの使う教科書への関心は“特別な人たち”だけのものではないとしみじみ実感!!

 本議題は数ある議題の中の4番目。

 採択のために市教委が組織した「教科書採択調査委員会」の委員長が調査結果の報告。

 種々具体例を出して、公平・公正、子どもの発達段階を考えて、自由社発行の教科書は中学生に馴染まない、他の教科書はほぼ適切、と。(この調査委員会。学識経験者1、市民2、学校経験者4、地域関係者2で構成。委員長は互選)

 それを受けて教育委員5人の発言。とりわけ2人が調査委員会と同意見を強調。他の2人は殆ど発言なし。で全会一致で自由社版不採択、これまで通り、を決定。

 最後に教育委員長が異例(?)の発言。

 「いつも間を取り持っているだけで自身の意見はないのか!と言われるので一言。人一人の命の尊さを真剣に受け止める視点がなくて、過去を学び未来を語る意味・資格があるのか、私はこの立場から物事を見ています」と、選択対象の教科書の中身を具体的に上げながら、見事な総括発言をされました。満場大拍手!!

 僕は前回の採択教育委員会も傍聴しましたが、こんな感動は初めて! 涙、涙…でした。

*****以上転載
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by lumokurago | 2009-08-24 21:37 | 杉並区

いま多喜二を語る意味 ―新たな戦争と貧困の時代に その5

未来につなぐもの

 多喜二は常に大きな視野を意識していました。彼の論文や運動の中で発表したものには「当面の問題」が常に出てきます。当面の問題はどうすべきなのかを絶対に忘れていない。しかし大きなスケールでの時間、自分というものを意識している。そういう意味で多喜二は絶対に私たちの同世代の人間だと思っているのですが、バデューさんとつながるとしたら、たとえば大好きな作品に『1928年3月15日』という、左翼、労働組合、共産党に関係のあった人たちの全国的な大弾圧を扱った小説があって、その中で拷問をつぶさに描いているんですね。非常に今とぴったりくるんです。

 アブグレイヴもさることながら、アメリカがやっている拷問と比較すべきだと思うのですが、その中に、非常に貧しい秋田の農民の小作人の娘である運動家の妻にアリをたとえに出させているんですね。私たちの運動はということで、アリが川を渡るときに先頭のアリがおぼれていく。後から来るアリはその死骸を橋にして渡って行く。運動はそういうものなんだということを言わせているのです。私はなかなかそこまでの勇気はないのですが、そういう何かつなげていく、未来につなげていくということ。

 今度の選挙でも、私は決して二大政党があることが民主主義だとは思っていません。それが嘘であるということはアメリカを見れば一目でわかることなのであって、でも、未来につながるものを何か作らなきゃと北海道の友人が話していたのですが、たとえ今の運動が私たちの生きている間に身を結ばなくても、未来につなぐものを残さなきゃいけないということだと思います。

 それが私が最初に申し上げた「今こそ主義」なんですね。しかし、「今こそ」というのがキャッチコピーになって、プラハ宣言があって、「シカゴの奇蹟」が持ち上げられて、被ばく者の方が生きている間にやらなければって、「今こそ」というのをさんざん繰り返して、再来週になって、来年になって、「今こそ」と言い続けられるかと言ったら、そうではないですよね。

なぜ今、多喜二を研究するのか

 「今こそ」という意欲は大事ですが、そういう言葉が空回りすることは問題ではないか。そういう点でやはり私は多喜二さんの作品には嘘の希望というものを感じないのです。だけど彼が希望を捨てているということは絶対にない。なぜ私が今の時期に多喜二を研究しようかと思ったかと懐疑的に質問されるのですが、このあいだ古い論文を手直ししていたら、なんと2002年の引用が出てくるのですね。

 2002年とは日本でどういう時期だったかというと、まだ格差という言葉が出ていなかったのです、実は。そんなに新しい現象ではないのですが、言葉としては新しいですね。バブルははじけていたけれども、バブル社会の理念というものが根底から捉え直されていたかというとそうではなかったです。

 そうではないところで私が多喜二に惹かれたというのは根本的に資本主義に幻滅している時期がずっとあったわけで、私のまわりには左翼知識人の同僚がたくさんいて、マルクス主義の理論は十分みんな身に付けていて、でももちろんベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊後は「階級」という言葉をみんな使わない、階級なんてもうないんだからと、そういうマルクス主義者なんですね。階級という言葉が使えない、使うことに過ちを指摘するような風潮があったわけで、その中で資本主義を完璧に捉えて、階級というものを前面に出している小林多喜二の作品に、ある意味では過去に戻ることによって自分の現在を生きる元気を常にもらっていました。

 もう一つは蟹工船のイメージ、大学生の時に当時日本語はそんなに読めなかったので、あまりよくない英訳で読んだのですが、その蟹工船のイメージは決して多喜二を研究しようと思わなかったわけですが、たまたま彼の文学館に行って、恋人のタキさんあての手紙を読んで、全然違った人間が私の前に立ちあがってきたような気がします。青年の熱い恋の思いなのですが、恥じなければならないような境遇から出てきている女性を、彼女が16の時に彼は出会って、10代のそういう女性に対して自分の人格を卑下しないように、人間の尊厳を訴えているのです。

 それが私にとっては強力な呼びかけだったのと、貧乏であることの傷がどれほど人間をゆがめていくか、特に、貧困を真っ向から意識した運動がない時に、貧困というのは恥じるだけなんですよね。それからできるだけ早く抜けたい。それがどれだけ人々の生活をゆがめてしまうか。特に階級という概念が切り捨てられた時点では、そういう考察が全く行われなくなる。

 アメリカだったらマイノリティである、女性である、エスニシティである、そういったことはここ20年来認められてきたけれども、階級は切り捨てられてきた。マイノリティ、エスニシティを強調する時に何があるかというと、「負」だけでなく文化的に価値が見出されて、たとえば黒人であったらバスケットボールの選手であるとかヒップホップ。しかし貧乏人には価値や魅力ってないわけですよね。そういう意味でも階級と貧困というものが忘れ去られた10年、ロスジェネという言葉が出てきましたが、ロスジェネの前から、我々の想像力、知性というものから階級という言葉を排除することによって何が失われてきたか、私の中では非常に大きな問題だったのです。

つづく
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by lumokurago | 2009-08-24 20:35 | 社会(society)

いま多喜二を語る意味 ―新たな戦争と貧困の時代に その4

嘘の希望と本当の敵

 「希望」ですけれども、もちろん人間は希望なしには生きていかれないし、こういう運動は続いていかない。けれども、嘘の希望はあった方がいいのか悪いのか。私自身自分に言い聞かせて半信半疑で、だけどその半疑の方が非常に重くなるんですよね。自分で自分をだますほどつらいことはないわけですから。それを長年続けてきて、8月付近にこういうふうに集まって決意を固くして、でも本当は信じることはできない、何も変わらないだろうと思ってしまう方は多いと思います。

 嘘の希望に頼るより、厳しい現実に立ち向かった時こそ怒りと力が湧いてくると私はこの頃思うようになったので、そういう意味でも8月の儀礼的な原爆報道の問題を再検討すべきではないか。それからせっかく集まった時に、やはり集まるということは力なんですから、本当の希望はなんなのかということを考えたいと思います。

 そこで多喜二に言及しますと、彼は恋人の田口タキさんという―強いられた境遇に育った女性ですが―彼女についてある時、こういう人たちを扱っている場合には希望を書き込むことが嘘になるんではないかということで、それはできなくなってきたと日記に書いているのです。私もそういうものだと思うんです。フィクションの中にも嘘の希望は書き続けられないと認識した多喜二をみなさんの念頭に置いておいていただきたいと思います。

 また、多喜二の登場人物の中には階級的憎悪とか敵という言葉が出てきます。憎しみというのは運動の中で一番大きな、大事な感情として出てくるわけですが、そこで大事なのは誰を憎むかというのを間違ってはいけないということです。

 多喜二は繰り返し言及しているのですが、たとえばタコ労働、悲惨な労働、奴隷労働を民営化したみたいな・・・。犬を使って虐待するストーリーがあって、犬をどうにかしてやるというセリフが出てくるのですが、後に多喜二は犬は犬でしかなくて犬を操るのが誰かということを見抜かなければいけないと。

 みなさん、ここでは『蟹工船』のストーリーをご存じの方が多いかと思いますが、あそこでもやはり鬼の浅川監督が敵ではない、敵をみきわめるには丸の内の帝国海軍やそういうところに視野を向けなければ、本当の敵を見間違えてしまうということを、ちゃんと書いているわけです。

 ですから構造的な敵がどこにあるのか、これは本当に大変な問題なのです。人間の形をした敵を憎むのはたやすいのですが、構造に対する怒りをかきたてるというのはむずかしいことです。しかしそれなしにはやはり私は今の反貧困、反戦争の運動というのは進まないと思うので、怒りの質、怒りの穂先をどこに向けるかということも議論して、みんなでしっかり確認していかなければならないと思います。

アラン・バデューの「共産主義仮説」

 「シカゴの奇蹟」という一つの逸話の嘘の希望の話をしました。またちょっと違う視点で、友人が今話題になっているフランスの哲学者のアラン・バデューという人の「共産主義仮説」というエッセイを送ってきて、どう思うかと聞いてきました。私は最近、哲学者のそういうものを避けているのですが、バデューは共産主義こそ近代なんだと言っています。共産主義仮説を嘘だとしりぞけてしまったら、我々は集団的行動をあきらめることは当然であって、そういう思想を追求する必要がなくなってくる。共産主義仮説の根幹が何かというと、競争原理、それから少数者が多数を支配するという社会に対する絶対的な信念と行動、それが彼の言う共産主義仮説なのです。

 彼は二つの時期を設けていまして、最初がフランス革命からパリコミューンまで、つまり1792年から1871年まで、それから戦争をいくつか、第一次大戦を含め、第2期が1912年、17年、1976年、ボルシェビキ革命、ソ連革命から中国の文化革命までの二つの実質的共産主義仮説が追求された時期の後に、今我々は生きている。それをどうするかということなのです。その意味ではこの哲学者の検討も私にとっては非常に意味が深かったのですが、もう一つ実存主義で有名なサルトルの言葉を引用しています。サルトルにとって共産主義というのは、思想とは何かというと、それは人間であることは何なのかということ。その思想をあきらめた段階で人間は動物と同じになって当然なんだ、つまり弱肉強食の世界になって、それを阻止する理念もなくなるということなのですが、これを読んで私が思ったことは二つあるんです。

 バデューさんは、哲学者として、またフランスの移民問題活動という実践もされているのですが、かなり高い所から近代を見ています。今の状況を見たら戦争が来るのは避けられず、戦争の時期の後に何が来るかということに、我々は視野を持たなければならない。今、我々は19世紀に戻りつつある。貧困、搾取労働、お雇いインテリゲンチャのマンネリ化、それはもう20世紀でもなくて19世紀に戻っていく、けれども第2期、第1期の共産主義仮説ではなくて、やはり21世紀にいる以上は違った共産主義仮説を追求しなければならないとバデューさんは書いているのです。

 つまり戦争が、彼は確実に来ると言っているのですが、あきらめるのではなくて、だからこそその先に共産主義仮説をどうやって実践に移すかということを一生懸命考えようと呼びかけています。それは私も大いに賛成なのですが、彼のように哲学者ではないので身近な人たち、周りに今いる人たちをどうにかしなくちゃいけない。やはり私たちの範囲の中の苦しみに対してどうやって向き合っていくのか、そういう問題を私は捨てることができない、ここで多喜二とつながってくると思います。

つづく
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by lumokurago | 2009-08-23 20:54 | 社会(society)