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明治大学での講演「終焉に向かう原子力」での小出裕章氏

 

 昨日、ここに行きたかったのですが、1000人の会場に入れず何百人もの人があふれていたとのことなので、私は行かなくてよかったです。この動画は会場に入れなかった人びとのために小出さんが外にでてあいさつしたところ。携帯動画なので声はほとんど聞こえませんが、拍手がすごい! 



 声の聞こえるのもUPされました。
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by lumokurago | 2011-04-30 14:31 | 原発

「原発いらない!」の意志表示をしよう

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 杉並区松庵のMさん方。Mさんよりメールをいただきました。

 私は動けないハンデを投稿、壁新聞で補っています。皆で玄関などに小さくてもいいから、「原発廃炉」など書いた意思表示を張り出して欲しいと思うのですが、いかがですか?

 この壁新聞は第5号くらいかな? 号数はいれてませんが。今日は帰宅したら、更新する予定。抗議して辞めた補佐官のこと、27日の東京新聞の9歳だかの女の子の投書。今朝の伊方原発の南海日日新聞。

 少しでも「原発NO」の人はその意思表示をすると、いいなあと思っています。

 小さく、「原発要らない!」でも。
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by lumokurago | 2011-04-30 14:20 | 原発

定年技術者ら40人「原発で働かせて」…復旧ボランティア志願

 プロテアさんとこで発見しました。福島原発暴発阻止行動プロジェクトスポーツ報知に紹介されています。以下転載。

*****

 東京電力福島第1原発の危機を回避するべく、還暦を過ぎた元技術者たちが、ボランティアでの復旧作業を志願している。プロジェクトには28日までに、女性を含む約40人が参加を表明。高濃度に汚染された原発内部で、被ばく量限度を超えての作業も辞さない意気込みだ。発起人の山田恭暉(やすてる)さん(72)は「若いやつらに行かせるわけにはいかない。俺たちは死んだってたいしたことはない」と死を恐れず、原発に立ち向かう。

 顔には深いシワが刻まれているが、眼光は鋭い。山田さんは命を賭する覚悟を口にした。「なーに、死んだってたいしたことないよ。子どもも成人した世代だし。東電や政府の悪口を言っても、何も解決しない。切り込んでいかなきゃ」

 原発の事故現場で作業する60歳以上の高齢者(主に元技術者)を募る「福島原発暴発阻止行動プロジェクト」が誕生したのは、震災から約10日後。60年安保闘争で、運命を共にした元技術者らが集う会合の場だった。原発の専門知識を持つ数人で意見を出し合い、「高濃度に汚染された場所で、技術者が3~4時間続けて作業して、10年間は作動する冷却装置を設置するしかない」との結論に至った。

 ならば、誰がやるか? 「俺たちがやるしかない―」。異を唱える者はいなかった。

 4月上旬から友人、知人、関係者にメール500通、郵便2000通を出して募集。すでに「行動隊」には約40人の志願者が集まっている。活動を支援する「応援隊」(年齢制限なし)は200人を超えた。

 志願者の中には数人の女性もいる。佐々木和子さん(72)は「話を聞いた瞬間に『我が意を得たり』と。すぐ決意しました」と語る。90年代、チェコで原発の廃炉計画を進める際、通訳として働いた経験を生かすつもりだ。「もう十分に人生は楽しんだから。家族は反対しないかって? 夫も行くつもりだから大丈夫」

 ほかにも最高齢の78歳男性を筆頭に、火力発電所での勤務経験者、大学教授、配管工と多彩なメンバーが名を連ねる。ある70代男性は「神風特攻隊とは違う。論理的、合理的に手助けをする」と静かに決意を語っている。

 東大工学部在学中に安保闘争に参加し、逮捕された経験もある山田さんは卒業後、住友金属に技術者として勤務。「40代の頃は、(自社事業に取り入れるため)東海村で原子炉構造を勉強しました」。知識と経験を、人生の集大成として総動員する。

 ただ、計画を実行に移すには東電と政府の了解が必要になる。山田さんはすでに約20人の国会議員に嘆願。政府筋にも働きかけている。プロジェクトの骨子を英仏独などの外国語に翻訳し、ツイッターなども駆使して海外に訴える作業も開始した。

 「これは第2の戦後です。世論を動かして、絶対に戦いたい」

(2011年4月29日06時03分 スポーツ報知)
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by lumokurago | 2011-04-30 14:01 | 原発

今日の3にゃん

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 といっても1にゃんが別の猫になってしまいました。ターちゃんが来なくなり、ムクちゃん(旧白黒ちゃん)が来つつあるのです。
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 ムクちゃんの名前の由来ですが、ちょうど来ていたヘルパーさんが「毛むくじゃらの猫がいる!」と言ったためです。まだぜんぜん慣れていないので、見ただけで逃げてしまいます。どこから来たのかなあ?
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 ニャーちゃんは笑っています。
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 チャーちゃんはマタタビ目当てで入ってきます。このつめみがきにはマタタビがついているのです。
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by lumokurago | 2011-04-30 12:11 | ねこと鳥 (cats&birds)

後藤政志さんのことば

 http://www.ustream.tv/recorded/14328632 

 上は後藤さんの4.28付けの解説です。後藤さんはこのなかで、フランスの原子力会社アレバ作成の福島第一原発の事故報告書について、日本側の関係者(保安院や東電)からの国民には知らされていない情報がなければ作れなかったはずだと怒りをこめておっしゃっています。

 さらに水素爆発の原因を、後藤さんらの推測(圧力容器内の燃料棒が溶融し、水と反応して水素が発生。それがサプレッションプールを経由して格納容器へ。格納容器の蓋のフランジなどの弱い部分(高温高圧になっているので)からもれて、爆発した--と違って、格納容器から直接ベントして水素が空気中にでて爆発と書いてあると読める。これがほんとうなら爆発することは必然だったとおっしゃっています。こんなことはやらないんじゃないかという気がするが、原子力専門のアレバはある技術情報に基づいて書いているはずなので信ぴょう性は無視しえない。これはこれから解明する必要があるとのことです。

 その後、後藤さんは憤りを隠せず、次のようにおっしゃっています。要約します。

 もしそうなら早く言えよと。これがほんとうだとしたら海外の資料でわれわれが知るなんてほんとうにバカにしている。事故シナリオというのは私がこんなところでいくら声高に言っても、一番よくわかっているのは現場で健闘している人たちである。その人たちが発信する義務がある。なぜかというと、浜岡などの事故を心配しているが、いまの(情報隠ぺい)状態では対応のしようがない。津波への対策は大切だが津波はシビアアクシデントが起こる入口、きっかけにすぎない。津波や地震の対策をしても、それでプラントが安全とは決して言えない。

 原子炉の事故においてはいろんな経路があって、多重にものが壊れたり、人のミスがあるとどうにもならない。いまの原子炉の設計は間違っている。炉心が融けてももつような格納容器でないといけない。そこまでやらない限り、原子力の安全は保てない沸騰型も加圧水型もいまの軽水炉ではそうはできていない。配管が破断しても格納容器があるから大丈夫というのは炉心が露出していない状態のこと。

 冷却材喪失事故が起こったら格納容器で守れるはずだったが、そうはならなかった。SMIでも今回でも突破された。これは設計想定ミスである。それを全部咀嚼してやりなおさない限り安心して眠れない。

 現在の設計で大丈夫だという意味は「たぶん大丈夫であろう」。「めったに起こらないだろう」と言っているが、起こった。計算上は何千年に1度起こる事故という評価をしている。それで評価上は無視しうると言っている。しかしたかだか数十年のあいだにこんな事故が2回起こった。確率論的に何千年に一度というのはうそっぱちで、数十年に1度起きてる。そんなもの(確率論)で安全を言うのがおかしい。(確率論には)昔から批判があるが再度証明された。科学技術において一番大事なのは理論ではなく実験などで実際に証明すること。シビアアクシデントは証明できない世界、だから確率で言っているが、実際に起こっているので、確率論で「安全」というのはやめようということ。

 もしこれで「津波の対策をしました」として、あと炉心が溶ける確率はいくつで、格納容器が破損する確率はいくつとでてくる。確率が低いから安全だというが、その構造には問題がある。事故が起こらないようにするが起こってしまうことがある。フェイルセイフといいますが、安全側に持っていけるのならいいが、そうでない、そういうシナリオがいっぱいある。それがシビアアクシデント。

 原子炉はもっているエネルギーが非常に大きい、そのままだと圧力温度が急激にあがっていく。その途中で緊急炉心冷却装置がはたらく。それである温度で抑えようとするが失敗したらどんどんあがっていく。こんなに厳しいものはない。4つも5つも安全装置はあるが、それがはたらかなくてもあるところまでいったら自然になだらかに冷えていくなら、原子力はそんなにこわくない。しかし放射性物質が大量にあって、チェルノブイリよりはるかにいっぱいあって、どんどんあがっていく。暴走する。原子炉は暴走するのが自然なんです。それを抑え込まなければならない。

 原子力ではそういう考え方をしないと。人間がやってる技術なので機械が故障したり人が失敗したりすることもある。日本の技術がいくら高いと言っても自動車だっていつかどこかが故障するし人もミスをする。確率は小さくても危険は必ず残る。そういう危険に対して原子力は保証できない。

 確率的にほとんどないよというのを残余のリスクという。これだけ多重に防御しました、ですから安全ですが100%ではない。そのときはごめんなさい、それが残余のリスク。今回の想定外はこれ。ほとんど起こり得ない、無視してもいい、100%の安全はないからちょっと残る。でも起こり得ないから安心して下さい。それが原子力の事故。

 反省すべきは原子力関係者すべて。絶対安全と言っていた。それが言えなくなって絶対とはいえないがめったに起こらないと言った。残余のリスクとして無視できる。そういうシナリオできた。こういう考えで設計製造も運転もやってきている。だからいまのような事故になったときに対応できないのは当たり前のこと消火系のポンプいれました、電源車もってきました。こんなもんで抑え込めるものではない。それはたまたまそれで抑え込めたらいいという話であって、それがいまの現状。

 事故の直後には言えなかったが、ほんとうに心配だったのは、最悪の場合のこと。大量の放射性物質がある、危険源が絶対的に多い。それを100%封じ込めると言えなければ原子力というぼう大なリスクを背負ってはいけない。ある炉が炉心溶融して下に落ちる。水と反応して爆発が起きる。ある炉がだめになれば高線量で隣の炉には近づけなくなる。その恐ろしさを考えてごらん。原子力のリスクをまったくわかっていない。あのとき私がどのくらい恐怖心をもっていたか。無責任なことを言ってはいけない、あおってはいけないと思ったが、逆に言わないと無責任。最悪の事態はと聞かれたが言えなかった。いま少し小康状態だから言える。

 事故が起こったら最初にアメリカは横須賀の原子力空母を佐世保までもっていった。日本は楽天的。ドイツの人、ヨーロッパの人は実際に逃げたがオーバーではない。当然。そういう判断もあるということ。海外の事務所が場所を移したのは訴訟の問題がある。低線量被ばくであっても訴訟を起こされるのでみんな撤退した。そのほうが正常。

 レントゲンでもむやみにあびるのはがんの確率をあげる。うっかり内部被ばくしたら大変で命取りにもなる。それなのに何ミリシーベルトなら大丈夫とか許容値で押し込むという感覚は理解できない。ヒ素というものがある。これくらい摂ったら死ぬとする。これくらいなら大丈夫といってヒ素を体のなかに入れる人がいますか放射能は目にみえない。計器を持っていくのか。(どこが高汚染なのか)わからない。単純にこの値ならいいということは間違っている。安全性について進歩した考えをもたなければならない。日本人は安全性の哲学がプアである。

 原子力は被ばく労働を認めないと産業として成立しない。ある人の犠牲のうえに我々は原子力という恩恵に浴する。それは平等ではない。原子力をやりたい方がいれば、全員で被ばくしましょう。被ばくすることを作業員、福島の人に押し付けるのは人間として間違っている。原子力をやらないとみんなが死ぬなら仕方がないが、なんでそこまでやらなきゃいけないのか。

 石炭から石油に切り替えた。そのとき、石油がどれだけあるかなどわかっていたか。わかってなかった。原子力の危険性とそういうあり方のまずさを考えれば、原子力という選択をやめて、LNG、石炭も復活させてやれば放射線よりずっとまし。原子力は安いと言っているが、研究開発にものすごいコストがかかる。それを太陽光などにまわしたらどうか。再生可能エネルギーは不安定だという。安定供給義務を果たせないという。しかし原子力は義務を果たしているのか。福島1~4は廃炉。柏崎も安全性を確かめるまでにどんなに時間がかかったか。私はまだ大丈夫だとは思っていない。地震が来たら安全を確認するために半年かかる。稼働率が下がる。安定供給ではない。

*****

 日本政府はなぜ後藤さんや小出さんのような信頼できる日本の技術者、研究者に情報公開して知恵を借りようとせず、アレバなどという得体の知れない会社に情報を流すのか。フランス在住歴が長い友人が、サルコジが来たとき、「のどから手が出るほど情報がほしいのよ」と言ってました。後藤さんもちらっとアレバにも目的があると言っていました。バカとしかいいようがない。

 いまだに原子力がないと電気が足りなくなって困ると言っているバカ者が国民の半数以上いるらしいから、バカ者はすぐに現場に行って収束するまでいくら被ばくしようが作業せよ。それがいやなら電気が足りなくなるなどと寝言は言うな。電気が足りなくなるのと被ばくするのとどっちを取るのかよく考えてみよう。だいたい電気は足りてるけどね。それも知らないバカども。(私も完全に怒っています)。

*****

 こちらに完全な起こしがあります。

 http://nixediary.exblog.jp/12498536/

 つづきhttp://nixediary.exblog.jp/12498644/

 
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by lumokurago | 2011-04-29 18:21 | 原発

やっぱり国も東電も何もわからないのだな

「国は何を知っているんだろうか・4/27公開討論会の感想」 たんぽぽ舎

 4月27日(水)、原子力安全委員会や保安院などの担当者を呼び、国会議員と市民による「福島原発事故に関する公開質疑~事態の見通しと対応策」が開かれました。詳細報告はやりとりの分析を経て後ほど行うこととし、とりあえずの感想などを書きます。

 結局は手探りなのだという実態が一つは見えました。心底恐ろしいことです。

 保安院の前川防災課長が「本当に分からない」という言葉をなんども繰り返しました。特に深刻なのは、1号機に水を入れ続け、図らずも格納容器内で「水の棺桶」=「水棺」状態になっていることに対し、原子炉建屋が重量に耐えられるのか、放射性物質の放出が無いのかという問いに対し「答え」がないのです。普通、そんなことを前提にして格納容器は設計されていませんから、水圧、重量、あるいは余震の揺れなどで破壊される可能性は否定できない、徐々に水を入れながら様子を見ているところと言うのです。今の原発が置かれている状況を象徴するかの発言に、言葉を失います。

 今後、水素爆発や水蒸気爆発は起こりえるのかどうかについても「起こる可能性は相当低いのでは無いかと」考えているそうです。つまり起こりえるということの裏返しです。

 再臨界の可能性についても同様で、一部に言われていた「物理的、原理的にあり得ない」と言うことは一切無いことがわかりました。

 3・11前に私たちと国が議論をするときは、原発や核燃料施設に関する安全対策や安全性については、いつも「地の果てほど」の違いを感じてきたのですが、今日はそう感じませんでした。そう、私たちの感覚と国の感覚が近づいてしまった。これは粉飾しようもない現実の前には、大きな「見解の相違」などがなくなっていることを意味していると思うと、国や東電と「安全体制に問題有り」と丁々発止やり合っていた時期、もはや帰ってこない時期を懐かしくさえ感じてしまう自分がそこにはいました。

*****

 そうだろうと思っていたよ。でも最低限情報は公開すべきだから。
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by lumokurago | 2011-04-29 18:13 | 原発

3.11以後のDr.Aとのメール その7

渡辺より 4.24

 こんばんは。興味深いお話、ありがとうございます。田中好子さんの死は想像ですが穏やかだったような気がします。初回治療から19年も生きることができたし、3月まで仕事もしていたみたいだし、よかったと思います。

 やまいも死も人間の頭のなかにしかない観念であると考えれば、主体=理性がDNAの支配に抗い、自分のやまいや死を自分のものとし、コントロールしようとするのでしょうか。うーん。

 主体=理性(これはすごくわかりやすい)と考えれば、客体は? 環境? 関係? 社会? もともと日本語にない訳語だからわかりにくいということもありますよね。
 
 死は結局、本人にとっては観念であり、残される人にとってのみ実在するもののような気がします。

 私にとっては美しい若葉や花々とお別れすること、好きな人たちに会えなくなること・・・かなしいけれど、やはり仕方がないと納得してしまいます。「長生きしてほしい」と言ってくれる人はいますが、それも自分で努力してできることではないから、仕方ありません。

 池田さんはおもしろいですね。先生が喜ぶと思いました。生きていたら会ってみたかったです。


Dr.Aより  4.25

 こんばんは。死んでよかったというケースはほとんどにおいてないですね。特に身近な死は悲しいものです。私たちが問題にしているのは、池田さんがいったように、治せないのに治せると強弁する詐欺的な現代医療でしょう。最後は好みにもよりますが医療ではなく宗教に任せるのがよいかもしれません。また、寄り添ってくれる人がいるのもいいですね。今までの経験から励まされ安心して死ねるような気がします。

 私は無宗教でゴミとして捨ててもらうのがいいと思っていますが。これも無宗教という宗教なのかもしれません。

 客体は各主体により成り立つ構造といえるかもしれません。私たちは現代医療に批判的ですが、異なるいろんな考えの人々がいます。私たちは自らが正しいと考えているのですが、医療構造は私達や圧倒的多数の他者との相互関係で出来上がっています。それが詐欺であろうとなんであろうと、現代の医療であることに違いないのですね。こう考えてくると絶望的になっちゃいます。しかし、構造は無視できないのですね。

 若くして死ぬことは、必ずしも否定すべきことではありません。寄り添ってくれる、看取ってくれる人がいます。死ぬ瞬間が分かる脳が生きているような感じがします。長生きすると孤独に死んで行かねばならないケースが増えるでしょう。老いると楽に死ねるよなんて無責任なことがいわれますが、老若どちらがよいかはわかりませんね。


渡辺より 4.26

 あれあれ、私は冷たいのか、父も母も死んだとき「よかった」とまでは思わなかったけど、ほっとしました。まったく悲しくないし。あれ以上長生きしても苦しむだけと思っていたからかな。やっぱり知識は大事ですね。私は網野先生、近藤先生、村山先生(近藤先生が紹介している外科医:母について質問した)のおかげで現代医療の罠にはまらずにすんだけど、普通は医者に「治す」と言われれば治るものと信じていいなりになってしまうと思います。

 田中好子さんの件も報道によると、夫にも乳がんというのは初回治療をしたからといって「治った」というものではないことや、再発転移したら治らないものだという認識がないようです。好子さんも「がんばってたたかってきたけど、負けるかもしれない」とおっしゃっていて、がんというものがわかっていません。本人が努力して闘えば勝つものではないというのに、気の毒な気がします。自然現象だと思えば楽なのに。と言っても普通は思えないのでしょう。思えるというのは、これは宗教なのかな? やっぱり近藤教? あはは。

 好子さんは多くの人に看取られて幸せだったと思います。父の友人で生き残っている人(87歳)が会うたびに、「みんな死んじゃった。Aちゃんも、せいやん(父)も、Sさんも・・・。おれ一人生き残った」と嘆いています。先に死ぬ方がみんなに大事にされて思われて得ですね。

 なるほど、「客体は各主体により成り立つ構造」はわかりやすいです。構造を無視はできないので、闘ったりしていますが、とても勝ち目はないですね。だったらこうやってちいさな場所でつながって自分の考えで生きていこうとすることがとても貴重だと思います。ありがとうございます。


Dr.Aより 4.27

 こんばんは。病気は敵ではなく自身の一部ですから、勝ち負けはないはずです。戦う相手ではないと思いますが、敵のような扱いを受けることが多いようですね。現代医療の詐欺師にしてみれば敵でなければ困るでしょうけど。人間から病を取り除くことはできないでしょう。そうなると人間ではなくなるのですね。病気になりますか、それとも人間やめますか、なんてね。

 明日は札幌です。中学の同級生数名と会うのですが、どう変わっているでしょうか。楽しい夜にしたいと思っています。


渡辺より 4.28

 おはようございます。病気は敵ではない、自分の一部で自然現象・・・そんな考えが広まったら、ほんとうに医者はいらなくなってしまいますね。人びとは平安に暮らすことができるでしょうが、やっぱりあり得ない話か。DNAに逆らい、主体を強固に生きる生き方は脳の大きな人間にあっていると思うのですが。そう言えば近藤先生が私の「生前追悼文集」に、動物は自然に死んで行く、人間は大きな脳をもったツケとして不安や恐怖と闘わなければならないが、その大きな脳は同時に理性や感性を与えてくれると書いていました。だから脳の使い方ひとつだと思います。こっちのほうがずっと楽だと思いますが、みんなはそうは思わないかな。

 では気をつけていってらっしゃい。そして楽しんでいらしてください。

*****
 
 最凶さんがブログに田中好子さんについて書いておられます。おもしろいですよ。また、コメント欄に記事にはできないような内輪の話が書いてあります。

 「乳ガン芸人じゃなかった田中好子」

 つづき 「田中好子の死後を大予言!」
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by lumokurago | 2011-04-29 11:59 | Dr.Aとの往復メール

「どうしても放射性廃棄物を捨てるなら、東京に」

「どうしても放射性廃棄物を捨てるなら、東京に」

 原子力の識者がなぜ反原発を掲げるのか、京都大学原子炉実験所・小出裕章助教に聞く

 人類史に刻まれた311、つまり東日本大震災と福島原発の事故により、原子力発電に依存した日本のエネルギー政策があらためて問題となっている。原子力政策に異を唱えて続けてきた「熊取6人衆」の一人、京都大学原子炉実験所の小出裕章助教は、今回の事故当初から東京電力や政府による発表に疑問を呈し、放射性物質の危険性を警告してきた。原子力の研究者がなぜ原発に反対するのか。小出助教の原子力に対しての姿勢に至る経緯、次世代のエネルギー、そして映画『100,000年後の安全』でフィンランドの実例が描かれた核廃棄物の処理について、有太マンが聞いた。

http://www.webdice.jp/dice/detail/3034/

*****

 小出さんはエアコンも使わないし、電気をできるだけ使わない生活をしている。むかしの東京が好きで、東京オリンピック以降のコンクリートで固められた東京には住みたくないだって。このテーマでこんなに自分とそっくりな考えの人にはじめて会った。私も東京には住みつづけたくなかったけど、あの頃は地方の大学に行きたくてもお金がなかった。そのあとも「成り行き」から思い切って飛び出すことができなかった。もう移住もできなくなってしまった。電気もガスも水道もない幸せなフィリピン・カバジャガンでの暮らしが大事な思い出。
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by lumokurago | 2011-04-28 18:47 | 原発

「・・・への便り」  その14 S.O.

 (これは「求めて求めて」「なぜ私は書きつづけ、送りつづけるのか」への便りです)。

「・・・への便り」 その14  S.O. 『暗川』第21号1987.11.8より

 単に時間がないからというだけでなく。いま触れようとしていることがきっと自分でもいまはわかっていない重要さを持っているだろうと思えるので、とりあえずメモというかたちで何かを予感させておきたい――と思うのです。

 あらためて考えると、<表現>した本人にさえ気づきえていないことは、他者がある切実性をもって追っていこうとすると、それが<コミュニケーション>と呼ばれるものなのではないか、と思ってみたりします・・・。

 ・・・≪ことばは何のためにあると思いますか≫という声の前で立ち止まって見る。そしてもしかしたら≪ことばは何のためにある≫のか、と考えるためにこそ≪ことば≫はあるのではないか――と、ふと思ってみる。つまり≪ことば≫は≪何(か)のためにある≫というように、それ自体としてはじめから何らかの意味や価値を持っているわけではない。ただ、≪ことば≫は目の前にいることを<問い>と化すためにあるのではないか。たとえば、≪ことば≫自らを考えようとするとき、≪ことばは何のためにある≫のか――ではなく、≪ことばは何のためにある≫ のかと考えるのはどうしてなのか・・・というように問うやりかたで。

 ≪一枚の風景のどこに私はいるのか どこにもいないのか≫という根源的<不安>、≪動詞がひとつ、またひとつ、次々に消費させられていく 形容詞は風になって吹きすぎていく 私は森の中で道に迷う≫という<徒労>感はよくわかる。

 だが、そうした<不安>、<徒労>感が<問い>と結びついたとき、むしろ実在感として確実に自らの中に沈み込んでくる。≪腕を伸ばしてむんずと風をつかもうとする≫手が危い風をそっとすくいとる。

 <他者>とは何か。≪「風が吹かなければ風鈴は鳴らない」「自分の体温を感じるためだけにも他者の左手が必要」(『共犯幻想』真崎守)≫ この『共犯幻想』の冒頭で、バリケードに立て籠もるのがなぜ<わたし>ではなくて<わたしたち>なのかと問うとき、4人でもう3人分しか残っていない即席ラーメンをすする場面はとても象徴的だ。

 バリケード解除へ対峙するために、まずは確実に腹ごしらえと考えるなら、食事は明らかに1人分欠けているのである。けれども、この1人分≪欠けている≫という思いが、どうしようもなくなぜ<わたし>ではなくて<わたしたち>なのかという<問い>へ向かわせるし、また<わたしたち>であることの必要性~<他者>の必要性への自覚の契機となっているのではないかと思える。

 つまり自分は自分であり、それに<他者>が加わればさらに自分は向上する――のではない。自分という存在がはじめから何かが≪欠けている≫ことから出発しているのではないかという感覚が<他者>を招き寄せるのである。だから<他者>とは≪欠けている≫ことをあらためて出発の強力な自覚とするという契機のことなのであり、もしかして実際に具体的な<他者>に出会えないということもありうる。その場合、とおい、まだ視えてこない<他者>を自らの内部に予感させておく試みが追求されていく。

 この試みが、あて名のない恋文・・・ということなのである。

 ≪風≫とは何か。≪風鈴≫とは何か。≪体温≫とは何か。≪左手≫とは何か。ここで言われているのは、≪風≫、≪左手≫~つまりは<他者>の不可欠性ということだろうが、この≪風鈴≫を鳴らす≪風≫や≪体温≫を感じ取る≪左手≫を、味方やなかまというように限定してはならないのではないだろうか。むしろそこに<敵>を含めて考える必要がある。

 もちろん最終的な<敵>とは権力性のことだろうが、≪風≫や≪左手≫を<敵>を含めて考えるということは、困難な条件下であるからこそ、より≪風鈴≫は鳴り、より≪体温≫は鋭く感じられるということなのであり、また<敵>の意味を考えることによってしか、ほんとうは見方とかなかまとかは鮮明になってくることはないのである。

 つまり、差し出した手の向こうに<他者>と出会えないこともありうる。そうした<他者>との<出会い>とは、試行の道筋にあるほんの偶然であるとも思えるから。≪"FROM"でいっぱいで、だから"TO"でいっぱい≫と必ずしも限らないときもある。そんなときにも≪風鈴≫は鳴らせるか?

 ≪自分の中にたくさんの他者が住む≫とは、友人の数のことではないだろう。そうした<他者>とは、いわば無念さのことではないか。自死や挫折や失語・・・といった強いられた<時代>の重圧のなかで<自分>へも行き着けなかった者たち・・・。だから、ほんとうは<他者>とはもうひとりの<自分>のことだろう。

 <敵>に包囲されたなかでさえ、≪風鈴≫は鳴らすことができる。もうひとりの<自分>としての<他者>に視つめられて。

≪今日も新しい小さな芽が出た 赤ん坊も生まれた≫は、だから新生というよりも再生のイメージの内部で捉えることはできないか。

 (つづきはMoreへ)

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by lumokurago | 2011-04-28 12:02 | 昔のミニコミ誌より

ニホンのトモダチによる隔離壁(米国の恐怖)が完成しました。

 4月26日の辺野古浜通信です。写真は本家をご覧ください。以下転載。

*****

この壁のテッペンには、所謂「ニンジャ返し」がついています。沖縄中に張り巡らされている「フェンス」と同じですね。

さあ今、あたらしい「壁」が完成しました。

ニホンとアメリカが、沖縄の文化を、環境を、歴史を、人々を、傲慢と差別によって一方的に侵略、占領する、新たな歴史の始まりです。

この壁が高くそびえ、排除を強めるほど彼ら(米国民と日本国民)が、自らの不当性、罪を如何に自覚し、怖れているのかがよくわかります。

「壁」を造らなければならないほどの、か弱き沖縄の民衆に対する「米国の恐怖」…それは、あらゆる地域において過剰に反応し、更なる攻撃を加速させます。

それは、世界中に何千万という屍を積み上げてきた恐怖です。

追従する卑屈な子分、ニホンも、常に、この死体の山の高さを維持することに協力してきました。

「恐れ」は、ニホンによる沖縄差別を進め、沖縄人の命を軽んじ、自分自身の不正義、醜い存在を隠そうとする動きへと繋がることでしょう。

しかし、私たちは決して諦めることは無いし、許すこともしない。

米国民とニホン国民は、永久にこの壁の建設…、外国の民への占領を悔い、恥じなければならないでしょう。

「怒り」は増すばかり… 彼らには対処する能力はありません
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by lumokurago | 2011-04-28 11:15 | 沖縄