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読み比べ その3

9月7日(水) (「渡来人」と「帰化人」)

 さて、今日も帝国書院からです。

2.「東アジアの変化とヤマト王権」のページに「国づくりにはたした渡来人の役割」という囲み記事があります。これが宮坂委員のこだわった「渡来人」か。(宮坂委員は「帰化人」でないとおかしいと主張している(8.4))

 辞書で調べると、「渡来人」とは、「外国から渡来した人。特に古代、四~七世紀ごろに朝鮮・中国から日本に移住してきた人々をいう。武具製作・機織り・農業などの先進技術をもって大和政権の軍事・政治面に重要な位置を占め、文化の発展にも大きく寄与した」(大辞泉)。

 「帰化人」とは、「帰化によってその国の国籍を得た人」(大辞泉)。

 宮坂さん、このころはまだ「国」も「国籍」もないのだから「帰化人」というのはおかしいぞ。

 囲み記事の中には、辞書にもあった説明の他に「平安時代初期の貴族の約3割は渡来系の人々でした。渡来人は、われわれ日本人の先祖の一部となりました」という記述があります。当然そうでしょうね。つまり、私たちの体の中には古代の朝鮮・中国の人々の血が流れているわけです。早い話が遠い親戚?!

 大阪書籍では「渡来人」の説明の他に、「地域に残る渡来人の足跡を調べる」という調べ学習のページが半ページあります。これを見ると九州、近畿地方の他に、四国(瀬戸内海側)や日本海側、関東、宮城にまで足跡があることがわかります。当然われわれの先祖の一部となったことでしょう。

 日本書籍新社。やはり「渡来人」の説明があり、渡来人が伝えたかたい質の土器(須恵器)とかまの絵があります。

 清水書院。囲み記事で説明があります。本文にはもっと大事なことが! 明日扶桑社と比べますので、読んでおいてください。

 「ヤマト王権は、朝鮮への進出もはかり、その正当性を認めてもらうために中国皇帝への使いを何度もおくった。また、中国や朝鮮半島のすすんだ文化を積極的に取り入れ、倭に移り住んだ人びとを重要な役職に用いた。こうした渡来人のなかには大王家と婚姻関係をむすぶ一族もあった」 ほう!天皇にも渡来人の血が流れているのか。たしか今生天皇も正式な場でそのように発言していましたね。

 扶桑社。「帰化人と仏教の伝来」という小見出しのもとに「帰化人(渡来人)」として説明があります。ふうむ、「帰化人」という言葉にこだわるのはなぜ? 常識がなくてすみません。どなたか教えてください。

 この点について、歴史学者から指摘があります。ーーこれ(「帰化人(渡来人)」として説明があった)よりあとの記述では、「帰化人」のみを使用している。相変わらず(4年前と比べて)自国中心で他地域からの移住者を貶める意図をもった記述である。「帰化」の語には確立した国家体制が前提とされており、5~6世紀の歴史記述において用いるのははなはだ不適切である。
「『新しい歴史教科書』の問題点」(編集:歴史学研究会)より
 
宮坂委員:「帰化人も渡来人も同じようなものじゃないかと言われればそれまでですが、よく考えるとちょっと意味合いが違うような気もいたします。
  ---------差別的意味合いがあるんだって! 大変だ。宮坂さん知ってた?

 ここでYさん(社会科教員)より鋭い指摘あり。

 「それにしても、教育委員会では、扶桑社版を支持する大藏氏や宮坂氏は「(大東亜戦争などの表現のように)、当時の人々がどう考えたか、どう表現したのかを知ることが大事」ということを主張しますが、こと古代史になると、この主張がまったく逆転します。つまり、当時の古代人がどう表現したかということを無視して、当時使われていなかったことば―「朝廷」だとか「帰化人」だとか―を使っている教科書が良いとなるわけです。こういうのって、論理的矛盾って言わないのかしらね」

 それとこの間、中国や韓国がお嫌いな方々からHP管理人あてにいくつかご意見をいただきましたが、日本人の血には中国人、韓国人の血が混じっているようです。中国人、韓国人を嫌うということは、もしかしたら自分を嫌っていることになったりして???考えすぎ?
 
 このあたりを読んでいて気になるのは扶桑社の「百済を助け高句麗と戦う」というところです。この部分がすごく長いんですよ。ここまでを全部読んでいただいていれば、なぜか想像できますね。「大和朝廷と東アジア」として2ページ使っています(「帰化人」記述も含めて)。

 このあたりについては明日また、他社と比べたいと思います。
 

9月9日(金) (「百済を助け、高句麗と戦う」ーー時代的には「渡来人」の前)

 扶桑社。「百済を助け高句麗と戦う」という小見出しの初めに古代の朝鮮半島について5行述べています。 「朝鮮」に関する話題でまとめて古代から書いているということ。「たたかい」については12行あります。このころから「たたかい」を強調しているのです。

 帝国書院。「朝鮮半島でも、3~4世紀ごろ、小国家の分立から統一の方向へとすすんでいきました。ヤマト王権は半島南部の加羅(伽耶)地域とのつながりを強めながら、百済と連合して高句麗や新羅とたたかいました」 扶桑社では「たたかい」について12行あるところ、こちらはたった2行。どういうこと? 帝国書院がおかしいのかな。(帝国書院でも古代とつなげて朝鮮についてまとめて書いています)。

 大阪書籍。古代の朝鮮の記述が古代中国の次に12行あります。高句麗との「たたかい」については「5世紀ごろのアジア」という小見出しの中にあり4行です。

 日本書籍新社。これはまた極端です。例の「たたかい」について全然書いていません。「4世紀の朝鮮では、高句麗が北方から進出してきて、中国がたてた楽浪郡を滅ぼした。南部では、百済・新羅の2国がおこり、3国が対立するようになった」なんとまた簡潔な!伽耶(加羅)は地図に載っているだけです。

 清水書院。こちらも「たたかい」について全然書いていません。ということはそれほど大事なたたかいではなかったのか・・・。日本書籍新社と同じくらい簡潔に朝鮮半島について書いているだけです。

まとめ
 扶桑社:12行
 帝国書院:2行
 大阪書籍:4行
 日本書籍新社:なし
 清水書院:なし  です。 いったいこれはどういうこと??

歴史学者によると
「百済と任那を基地にあくまでも大和朝廷が中心となって高句麗と戦ったとする2001年番の叙述からの修正こそ認められるものの、高句麗との対抗を機軸に4~5世紀の対朝鮮関係を描こうとするこの教科書の叙述の基本は変わっていない。

 また、『任那』に関する研究が進展した結果、現在多くの教科書では任那ではなく『加羅』ないしは『伽耶』の表記を用いている。

 それに対し、この教科書では『任那(加羅)』という表記を行っているが、これは否定された学説に基づいた重大な誤りである。任那に固執する背景には、古代における日本列島の政治勢力の朝鮮半島への影響力を史実以上に強力に見せようとする意図が感じられる」(「新しい歴史教科書」の問題点より)

宮坂委員:どういうわけか、朝鮮半島南部にあって大和朝廷の拠点とされた任那という言葉ですが、この名称は、扶桑社以外はあまり使われてないです。・・・どういうわけで任那を嫌うのか、想像はつきますけれど、今まで使われた言葉は使っていないのはどうかと思います(8.4)。
   ーーーー「好き」「嫌い」の問題ではない。研究が進んで、否定されたんですよ!勉強なさったらどうですか?
 
9月11日(日) (「任那」は朝鮮半島における大和朝廷の拠点?)

 扶桑社。他社の教科書が全然書いていないか、書いていても2~4行の「百済を助け高句麗と戦う」(扶桑社 =12行)のところに、4世紀以降、「高句麗がしだいに強大にな」り、「百済をも攻撃した」ので、「百済は大和朝廷に助けを求めた」、「大和朝廷は海を渡って朝鮮に出兵」、「このとき、大和朝廷は、半島南部の任那(加羅)という地に拠点を築いたと考えられる」と書いてあります。何の「拠点」なの?こわいなあ。

 その次の小見出しは「倭の五王による朝貢」。「5世紀中ごろ、中国では漢民族の南朝と、遊牧民族の北朝に分かれて争う南北朝時代をむかえた。南朝の歴史書には、倭の5人の王(倭の五王)が、10回近く使者を送ったことや、大和朝廷の支配が広がっていくようすが書かれていた、大和朝廷があえて南朝の朝貢国になったのは、高句麗に対抗し、朝鮮南部とのつながりを維持するためだった」(朝貢ーみつぎ物をささげること)

 次の小見出しは「新羅の台頭と任那の滅亡」。「6世紀になると、朝鮮半島南部では新羅が力をのばした」。「百済からは、助けを求める使者が、日本列島にあいついでやってきた」。「562年、ついに任那は新羅にほろぼされ、大和朝廷は朝鮮半島における足がかりを失った」

 つまり、大和朝廷は任那を拠点として、朝鮮半島に勢力をのばしたかったのだな。朝鮮南部を「侵略」したかったんじゃないの? 

 扶桑社版教科書を推した方々は、「侵略」という言葉がお嫌い。だったら他の教科書のようにさらっと流すか何も書かなければ、「侵略したかったのでは?」と疑われることもなかったのに・・・。なぜこんなに詳しく書いたの?

 おっと、「当時は『国』という概念がなかったので『侵略』という概念もなかった」(by大藏委員8.12)のでした(この発言は豊臣秀吉の「朝鮮出兵」についてのものだけど、こっちはもっと古い)。

 「高句麗」「新羅」とかって「国」じゃないの? 「朝鮮では三つの国が分立していたが、」と書いてるんですけど。

 だんだんわけがわからなくなってきて、「自己矛盾」とか「詭弁」という言葉が頭に浮かんできました。

大藏委員:「口先だけで言えば、何でも言える。海の上も歩ける。詭弁という言葉がある」(8.12)
  ----これって、ご自分のことをおっしゃっていたのですね!

 さて、他社がどうなっているか?

 帝国書院。「また、このころ、ヤマト王権は中国の皇帝へたびたび使いを送り、その力を借りて朝鮮半島諸国に対して優位にたとうともしました。しかし、朝鮮半島での争いに敗れることもあり、安心して鉄を手に入れることはなかなかできませんでした」

 なるほど。戦争というのはいつの世も同じような目的で始められるのだな。「大東亜戦争」は石油を手に入れるため。イラク戦争も同じ(それだけじゃないけど)。人間の欲の深さよ。

 大阪書籍。「百済と新羅にはさまれた伽耶(加羅、任那)地方の小さな国々は、大和王権とのつながりを利用して両国に対抗しました。朝鮮や中国の記録には、4世紀ごろから倭が朝鮮半島の国々と交渉をもったことや、5世紀の倭王が、5代にわたり中国に使いを送ったことなどがみられます。こうした機会に、朝鮮から日本に大量の鉄がもたらされました」 どうもわかりにくいなあ。

 日本書籍新社。「4世紀の朝鮮では、高句麗が北方から進出してきて、中国がたてた楽浪郡をほろぼした。南部では、百済・新羅の2国がおこり、3国が対立するようになった。5世紀の倭国の大王は、5代にわたって中国の宋の皇帝に使者を送った。大君は倭国王としての地位と、朝鮮半島南部を支配する、将軍としての地位を認めてもらおうとつとめていた。『武』という大王は、中国の皇帝に手紙を送り、ほぼ望んだとおりの地位を認められた」 「たたかい」の具体的な中身は何も書いてない。

 清水書院。「ヤマト王権は、朝鮮半島への進出もはかり、その正当性を認めてもらうために中国皇帝への使いを何度もおくった」 すごく短い。けどわかりやすい。

 つまり扶桑社は、「百済から助けを求めてきた」などと朝鮮半島への「侵略」行為を正当化したいみたい。本当に百済から助けを求めてきたのでしょうか? 任那に「拠点を築いた」とか「足がかりを失った」という記述は、主観なのではないでしょうか? 他社の教科書に書いてないので、わかりません。専門の方、ぜひ解説してください。

11月8日(火) (元社会科教員Aさんからの助け舟)

ーー 「高句麗」「新羅」とかって「国」じゃないの? 「朝鮮では三つの国が分立していたが、」と書いてるんですけど。 (わけのわからなかったこの部分に以下の投稿をいただきました。ありがとうございました)

 2世紀から3世紀の朝鮮半島の国は北部が高句麗、南部が馬韓(諸国)と辰韓(諸国)、弁韓(諸国)と分かれていました。

 これが4世紀になると北部は高句麗が領有し、南部の馬韓を百済が統一、辰韓を新羅が統一、弁韓は統一できないで伽耶(加羅)(諸国)という形になります。

 つまり、この当時の朝鮮半島には高句麗、新羅、百済の3つの国がありました。伽耶(加羅)は元弁韓の土地にあった諸国の総称で先にあげた高句麗、新羅、百済とは意味合いが違います。

 「このとき、大和朝廷は、半島南部の任那(加羅)という地に拠点を築いたと考えられる」の記述は日本書紀の中にある任那日本府が実在していたという前提で書かれたものです。管理人も知っているようにこの日本書紀の記述は否定する見解が多いです。

 「百済からは、助けを求める使者が、日本列島にあいついでやってきた」は事実です。そして高句麗・新羅連合軍と百済・日本連合軍が戦った戦争が白村江の戦い(663年)になります。これ以降日本は国内の政治に専念することになります。ということで、日本史の通史としては重要です。

 歴史的経過でいえば「任那(加羅)滅亡(562)」→「百済滅亡(660)」→「白村江の戦い(663)」という流れになります。扶桑社の記述ではどういう流れになっているでしょうか。確認してみてください。

元社会科教員A
確認:「562年、ついに任那は新羅にほろぼされ、大和朝廷は朝鮮半島における足がかりを失った」
660年の百済滅亡は書かれておらず、白村江の戦いが日本側の大敗北に終わったという記述の後に「こうして百済は滅亡した」とあります。
 
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by lumokurago | 2011-07-01 16:55 | 中学校歴史教科書8冊の読み比べ