暗川  


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蟲展のお知らせ

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「蟲展」9月12日(月)~23日(祝)
am11:00~pm7:00・日曜休廊最終日pm5:00まで
荒井康子・大豆生田綾子・川上きのぶ・武山忠道・長井一馬・馬場恒司・皆川禎子・吉田正樹・米田文
ギャラリー晩紅舎・Tel.03-3357-7480
新宿区四谷1-4 綿半ビル1F (JR・地下鉄四谷駅四谷口より徒歩1分)
作者在廊日は9月12日(月)・16日(金)・17日(土)・19日(祝)・20日(火)・21日(水)・最終日は午後4時以降。
なお、献花・お供物の儀は固くご辞退申し上げます。

 作家ブログ  工房うむきの「今日も駄作じゃ~!!」

*****

 友人は陶芸作品を出品しています。「蟲」をテーマにした作品展、おもしろそうです。いらっしゃれる方はご連絡いただければご一緒できるかもしれません。
 lumokurago@yahoo.co.jp
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by lumokurago | 2011-09-23 11:35 | 未分類

Y氏の便りより その1

Y氏より渡辺へ  1987.10.21

 (前略) 《暗川》をいただいたことで、新たに私の必読メディアが増えたことになります。一般に人が自分の思想をつたえようとする手段を、私は「メディア」と定義しますが、《暗川》は、ただ単にその意味で見事なメディアであるというばかりでなく・・・中略、表現するという営みの孤独に徹しきった渡辺さんの姿勢にも深い共感を覚えました。

 (中略) K自身の思想に踏みこんでいえば、初対面のその場からずっと私が指摘しつづけている問題のひとつとして、彼における「ふつう」という概念のもちいられ方があります。Kが自分を「ふつう」の人間の一人と規定し、その立場から物事を眺めるのだと語るとき・・・一般に想像されるより、ほんとうははるかに強力な《普通者》の集合体のなかに自らを意図的に溶解させてゆき、その最も厚い層のただなかに達したのち、ある種の余裕をもって《世界》に向きなおるとき――実は私には、つねに巨きな不審が兆すのです。

 彼が「ふつう」という言葉でそれと対置しようとしている事柄・相手がどういうものであるかは明白ですが、と同時にこの地上にはその「ふつう」という概念のなかにどうしても自分を同化させることのできない存在、どうしても自分を「ふつう」とすら言い得ない存在が間違いなく生きつづけていて、それらの人びとにとってはこの「ふつう」という概念の行使のされ方は、あまりに横暴であると感じるのですね。「ふつう」というのは、実はこれ以上はないほどごう慢な言葉ではないでしょうか。

 この問題に関して私の考えを述べるなら、私はむしろ、自分を絶対に「ふつう」とは呼ばない、呼び得ない立場――排除され、孤絶し、決定的に疎外された立場に拠りつつ、しかも無限に隔てられた《他者》に――《世界》の全体性に、もう一度、繰り返し、やむことなく関わっていこうとする試み、その欲望の方をいっそう信じたいという気持ちがするのです。この次元に達したとき、人はすでに、自分があれらのもの(Kや、渡辺さんや、そして私がともに批判し、乗り越えようとしているものたち)と異なった場にいようとするのだという意志の表明方法として、「ふつう」という言葉など用いる必要はないはずです。

 その意味では、彼の言う「自分が考え、行動すること」というのは、やはりある種の余裕をもった、中間的な過程での在り方かなという気がしないでもありません。私は、最終的には「生きていること・ぼろぼろになりながら、まだ自分が息をしていること」という事実意外に、なんの拠りどころも存在しない――そんな状況を、つねに想定してしまうのです。

 あなたがK書簡につづけて載せられたあなた自身の返信は、Kの優れた思想の読み解きとしてと同時に、こうした領域をも、はるかに視野の一角に納められた見事なものと思いました(にしがやさんの引用も、適切だと思います。当時、一部で論議をよびながら、必ずしも実りある論争とはならなかった彼女のエッセイは、こうした文脈のなかに置かれなおしたとき、改めてその創造的批判というものの輪郭が鮮明になってくるようです)。Kの提起に対し、それへの共感が語られると同時に、その最も繊細な差異がひとつひとつおさえられてゆく展開は、K書簡にみごとに拮抗しています。問題の所在が双方向から照射され、論理の倍音がたしかに共鳴していることを確認しました。

 ほかの文章・ほかの号にも、こうしたあなたの志向ははっきりうかがうことができるようです。詩というジャンルを重視されているのも、好ましい印象をもちました。《暗川》は、その存在を知ることによって、深い部分から励ましと希望を与えられる営みのひとつであると思います。(中略)《暗川》を読んでいても感じたことなのですが、あなたの文章の美質は第一に「正確なこと」(もちろん、国語の授業や作文教室のような意味のそれではなく――)だと思います。これは事物を批評しようとする主体性そのものの力に関与する問題になるでしょう。

 あなたがお手紙(注:当時執筆中だった『負けるな!子どもたち』について編集者に宛てて書いたもの)で書かれていたことは、非常によく理解できます。作品改変の作業は大変だと思いますが、成果を期待しています。すでにあるテクストより巨きく深い拡がりをもったものとしようとするとき、それまでの作品世界では支えきれない異物やまったく新しい要素を意図的に投入して、いったんは成立していた全体性に根本からの揺らぎを生じさせ、それを呑みこんだうえでさらに新たな地る所を獲得しようという運動をさせることで、もう一度、テクストが活性化することがしばしばあるようです。(後略)
 山口泉  1987.10.21

*****

渡辺よりY氏へ  1987.11.5

 (前略)
 Kさんのお手紙について言えば、「ふつう」という概念の扱いについてのYさんのお考え、よくわかります。実は私は親しい人たちの間では「ふつうの人」ということばをよく使うのです。それは、私が職場の人などの感じ方、考え方と自分のそれとが全く違うものだと感じたときに(いつもですが)。自分と「ふつうの人」とを対置させて使っているものです。Kさんの言い方でいえば、私も「ふつうの人」のひとりです。金があるわけでもなし、権力をもっているわけでもない「民衆」のひとりです。でも、ものの考え方、感じ方という点では、「ふつうの人」にとって私は異物であり、排除すべきものでしかありません。私は秩序を乱し、混乱と不安を招きますから。

 「ふつうの人」は基本的に変化を望みません。楽な現状維持を望みます。変化(変革)には多大なエネルギーが必要とされるからです。変革を望み、志向するためには、だから、そのためのエネルギーを生みだすもととなるだけの強い希求性(理想)が必要です。よりよい自分、よりよい関係、よりよい社会を心底から求めることなしには(なんか倫理的なことばでいやですが)、変革のためのエネルギーは湧き出ず、ぬるま湯である現状に満足してしまいます。私が「ふつうの人」との違いを最も強く感じるのは、この希求性をもっているかどうかという点においてです。

 私はよく、「ふつうの人」は「みんな」と自分を比べて相容れない部分を感じて疎外感を覚えたりすることはないのかな・・・などと思うことがあります。すごく演技が上手で、人前では自分をださず、みんなに合わせているのかなあ・・・などと。本音はどこでだすのかな・・・それとも本音がないのかな。

 私はKさんが自分を「ふつう」だというとき、逆説として言っているのではないかしら、と思ってみたりします。本音をださず、まわりに合わせて、決してほんとうの関係を作ろうとはしない「ふつうの人」たちのなかで、Kさんは「自分が考え、行動する」と言っています。それはどう考えても今の「ふつうの人」とは違うのです。でもそれをあえて「ふつう」だと言いきってしまう。そこにKさんの意志の強さを感じるのです。(後略)
 渡辺容子 1987.11.5


 
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by lumokurago | 2011-09-22 16:46 | 昔のミニコミ誌より

ちがう人間ですよ 長谷川龍生

 印刷版暗川では毎号、巻頭に詩を載せていました。本文をワープロで打つようになってからも、これだけは手書きで書いていました。下は第4号(1985.3.29-私の31歳の誕生日)の巻頭詩です。



 ちがう人間ですよ    長谷川龍生


 ぼくがあなたと
 親しく話をしているとき
 ぼく自身は あなた自身と
 まったく ちがう人間ですよと
 始めから終りまで
 主張しているのです
 あなたがぼくを理解したとき
 あなたがぼくを確認し
 あなたと ぼくが相互に
 大きく重なりながら離れようとしているのです
 言語というものは
 まったく ちがう人間ですよと
 始めから終りまで
 主張しあっているのです
 同じ言語を話しても
 ちがう人間だということを
 忘れたばっかりに恐怖がおこるのです
 ぼくは 隣人とは
 決して 目的はちがうのです
 同じ居住地に籍を置いていても
 人間がちがうのですよと
 言語は主張しているのです
 どうして 共同墓地の平和を求めるのですか
 言語は おうむがえしの 思想ではなく
 言語の背後にあるちがいを認めることです
 ぼくはあなたと
 ときどき話をしていますが
 べつな 人間で在ることを主張しているのです
 それが判れば
 殺意は おこらないのです
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by lumokurago | 2011-09-21 17:33 | 昔のミニコミ誌より

おたよりから 

 おたよりから K.K   暗川第5号(1985.7.1)より

 (前略)

 さて、暗川というタイトルですが、「よくぞつけたり!」という感じでした。渡辺さんもお書きになられた通り、以前「暗河」という雑誌があり(注:石牟礼道子さんらが作っていた水俣関連の雑誌)、私も何冊か読ませてもらっていました。ある懐かしさとともに、「暗川」というものに対する渡辺さんのある強い思いを感じました。「暗川」という文字ですが、もっと目立ってもよいのではないですか? いまの時代、目立つことも大切だと思います。この辺は渡辺さんと意見が違うかもしれませんが。

 ノンタイトルの1号ですが、原発を見学しての記述、おもしろく読ませていただきました。「私は悲しい」と書いておられますが、その一言に今の世の中、あるいは人のありように対する渡辺さんの思いを知るようです。ただ私は、誇ってよい悲しみもあるのではないかと思っています。もっと居直って生きてもよいのではないですか。

 第2号の『学童クラブにおける「障害児」問題を考える・・・(注:未掲のため省略・中略) 近くにいる太いきずなで結ばれている人々の関係も大切だと思うのですが、私のような、いってみれば部外者との細い、いまにもきれそうなきずな、それを保っていくことも大切だと思っています。そこのところを少し考えていただけたらなと思っています。

 第3号の「モノローグ’84」もおもしろく読ませていただきました。なるほどと思いながら、自分にも××的なところがあるなと思いました。その××的なところを失ってしまう必要はないのではないかとも思っています。私は現実主義者ですし、現場主義者です。私は自分を特異化するのが不得手なのです。その場にあって、せこさにまみれながら、そのせこさを受けとめ、そのせこさを多くの人々が受けとめていることから物事を考えた糸思っています。あえてせこさにまみれること、そのなかから何かをつかむこと、私の考えていることはこういうことです。

 第4号、長谷川龍生の詩は心にひびくものがあります。渡辺さんは、「ちがう人間だからこそ話をするのだ」「ちがうからこそ出会いを求め、対話を求め、共闘を求める」というように書いておられます。私もそれに異議はありません。ただ、私のこの詩から受ける印象は少し違っています。人間なんてお互いに永遠にわかりあえないかもしれない。わかりあえないことによってしかわからない私とあなた。その悲しみ。そうすることによってわかる私とあなた。共闘とかそういったものではなく、わからない、違うこと、そのことしかわからない悲しみ、そしてそれは誇ってよい悲しみなのだということ。私の受ける印象です。

 (中略)

 最後に「□□(権力者)が一番こわいものって何かわかりましたか」の問いに、私なりの答をしたおきたいと思います。私が考え、行動することです。私の勤務地は新宿ですが、高層ビルを見上げながら、あるいは見下ろされながら、資本主義日本のせこさにまみれながら生きています。その、せこさにまみれている、××的なところも捨てきれない私のような人間が考え、行動すること。ふつうでしかない、権力者にとってもっとも御しやすい私のような人間が考え、行動すること。

 (後略)  1985年5月4日  K.K


 Kさんへの返信

 Kさん、おたよりありがたく拝見させていただきました。最近、友人と<「民衆」の立場と「運動者」の立場>ということについて話すことがあったのですが、もし、そんなふうに類型化することが許されるとして、Kさんは「民衆」の達がに堂々と経っておられ、私はそのKさんの姿に底知れぬ物凄さを感じるのです。私ももちろん「民衆」のひとりですが、日常的にいろいろなところで「みんな」との違いを強く感じてしまうので、Kさんのように堂々と「民衆」の立場に立てず、変に頭で考えて<「民衆」の立場と「運動者」の立場>がどうのとか、本当なそんなふうに分けること自体おかしいのかもしれないのに、考えてしまうのです。

 Kさんも、「みんな」との違いを強く感じていらっしゃるでしょうに(私とそっくり同じではもちろんなくても)、どうしてこういう違いが出るのかなあと思います。「風のたより」(Kさんのだしていた通信)9号でにしがやさんが“「問いつづけて」を問う”(「問いつづけて」は林竹二著径書房刊)という文章を載せていて、私はこの文章に大筋において共感できるのですが、林竹二氏が授業に対して、「非本質的なものがすてられて、本質的なものだけがのこる」と言っていることに、にしがやさんは「本質ってなんでしょう?」と言っています。ここで出てくる「非本質的なもの」をKさんのことば「せこさ」とか「手垢にまみれたもの」と結びつけて考えるのは的外れなことでしょうか? 

 「せこさ」とか「手垢にまみれたもの」が、具体的にどんなことを言っているのかについては、Kさんは触れていないので、私は想像するしかないのですが、人間が理想を求めつつも現実との葛藤のなかで捨てきれずにいる「しがらみ」のようなものでしょうか? 人間は誰でも形は違っても「しがらみ」をかかえて生きていると思います。例えば、簡単な例では、私は学童クラブに勤めていますが、私は本質的に学童クラブという存在は放課後の子どもを管理するものであり、必要悪だと思っています(本当はこのことについて詳述する必要がありますが、いまは省きます)。それにもかかわらず、学童クラブ職員という仕事で飯を食っている私は、「資本主義日本のせこさにまみれ」ています。

 「せこさ」にまみれていない人間は、本当はひとりもいないと思います。だからその「せこさ」とどうつき合っていくのかが大事だし、「せこさ」にまみれながら、一人ひとりが考え、行動することが大事に違いありません。世の中には、林竹二氏の言う「本質的なもの」より「非本質的なもの」の方が圧倒的に多いから、それらWを「本質的でない」として無視したり、切り捨てたりしてしまうのでなく、逆に上手に扱うことによって自分のものとして止揚していく方向で考えたいと思います。

 「□□(権力者)が一番こわいものって何かわかりましたか」の質問にKさんが答えてこださった内容は、「これしかない」という感じで、とてもうれしかったです。

 次に、第4号の長谷川龍生の詩に触れて、Kさんは「わからないこと、違うことしかわからない悲しみは、誇ってよい悲しみ」だとおっしゃっていますが、私は「悲しみ」が「誇ってよい悲しみ」になるためには、長い手続きが必要だと思っています。Kさんはもちろん「長い手続き」を前提としてこうおっしゃっていると思いますが、私にとって「長い手続き」を踏むことはたいへんなことなので、なかなか「悲しみ」が「誇ってよい悲しみ」にならず、それで私は「居直って」生きられないし、一つ一つの「悲しみ」にこだわり続けています。逆に言えば、「こだわり続けることが「悲しみ」を「誇ってよい悲しみ」にするための「長い手続き」の過程なのかもしれません。

 (後略)

 
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by lumokurago | 2011-09-21 17:24 | 昔のミニコミ誌より

命より大事なものはあるのか!~国内最大規模の6万人脱原発集会


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by lumokurago | 2011-09-21 13:48 | 原発

理想や志は高すぎるということはない

 志高く理想を掲げる上橋菜穂子さんの本を読んでいて、たまたま整理していた手紙にその話題がでてきましたので、引用します。わかりにくい箇所もあると思いますが、お許しください。1988年のものです。

*****

 渡辺よりEさんへ 1988.2.15

 前略
 『蜚語』(注:Eさんらがこの頃創刊した雑誌)をお送りいただき、どうもありがとうございました。(中略)

 「編集方針」のなかの『サラダ記念日』への批判、溜飲が下がる思いでした。私は『サラダ記念日』は新聞等に載っていたいくつかの断片しか知りませんが、私の感想は「思想がない」の一言でした。『サラダ記念日』がベストセラーになり、著名人(著名であることなどに意味はありませんが)まで(?)が絶賛しているのを見て、この国の軽薄さは救いようがないと思いました。

 「理想や志は高過ぎるということはないと思う。志を高く持つということが、なにかひどく時代遅れのダサイこととされる風潮の中で、卑屈になることはない。諦めることはない」・・・その通りだと思います。拍手、拍手です。

 「トンネルの向こうに見えたもの」、あんまり明快なのでスカッとします。ただ、これは私自身の課題でもあるのですが、こういう内容を職場の隣りの席の人に読んでもらうためには・・・?と考えてしまいます。

 それから、「発行所」の『未完舎』という<名まえ>にとてもひかれるものを感じました。私には<未完>のイメージというものがあって・・・生まれ落ちた時から持っている私の中の<欠損した部分>――それを埋めようとして人を求め、表現を試み、でも、埋まらない・・・

 今、ここにいる私はほんとうの<名まえ>を持たない。仮の<名まえ>におおわれている。それを、ひとつひとつはいで、ほんとうの<名まえ>をとおく希求する・・・<完成>が美しいのではなく、<未完>こそが美しい。なぜならば、永遠に<未完>であることは、求め続ける志を持つことによって、美しさを意志するから・・・

 だから志を高く持って、過程を大切にして生きていきたいと思います。(後略)

*****

 Eさんより渡辺へ  1988.2.20

 前略 どうもありがとう。

 今日、私のところに届いた、川崎の「指紋押捺拒否者を支える会」のチラシ『指紋押捺1回につき罰金3万円なんていってくれるじゃないの』、思わず溜め息がでちゃいました。李相鎬さんはすてきな人だし、指紋押捺の闘いもたいへんなことだと思うけど、こんなタイトル付けるような運動ってなんだろうなと思ってしまいます。『原発サラバ記念日』とやらもなんとかならないものでしょうかね。この前は、建国記念日の集会の司会者が、死刑廃止のコンサートのチラシにも、あそこにも、ここにも、ってな調子です。少しみんなどうかしている、しっかりしてほしいもんです。(後略)

*****

 Eさんのおつれあい、作家・山口泉氏が『暗川』を読んで感想を書いてくれていました。紹介したいので、その前提となる『暗川』の記事を先に紹介します。次回からしばらく続きます。
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by lumokurago | 2011-09-20 13:15 | 昔のミニコミ誌より

推薦図書(上橋菜穂子)

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 最後までとっておいた本の中に上橋菜穂子さんの守り人シリーズがあります。

 精霊の守り人
 闇の守り人
 夢の守り人
 虚空の旅人
 神の守り人(上下)
 蒼路の旅人
 天と地の守り人(3部)

 友人の文庫に寄付するため、全部を読み返しました。親子関係、男と女、政治、戦争と平和、現実と理想・・・人生におけるありとあらゆるテーマがつまっていると言っても過言ではありません。上橋さんは平和、平等を高らかにかかげ、人間の闇もみつめながら、手の込んだストーリーに「理想」をちりばめていきます。物語の不思議さにひきこまれながら、考えさせられるテーマが満載されており、大人にこそ推薦できる作品です。理想を捨てずに生き続ける人、どなたにもお勧めします。

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 同じく上橋さんの『孤笛のかなた』 すばらしい最後に、貸した人がみんな泣きました。こちらもお勧めです。

 教育テレビで『獣の奏者』をやっていました(いまも?)。こちらもおもしろいですが、作家が書き慣れてきたために、テクニックばかりが上達しているように感じます。私は初期の『守り人』シリーズに作家の理想がより素直に表現されていると思います。長生きしたらもう一度買って読むつもりです。
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by lumokurago | 2011-09-19 18:05 | 本(book)

諸事情により今日もこれだけ

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 2匹もチャー吉も私も元気ですので、ご心配なく。
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by lumokurago | 2011-09-18 20:21 | ねこと鳥 (cats&birds)

寝顔

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 今日は軽いぎっくり腰のため、これだけにします。また、明日。おやすみなさい。
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by lumokurago | 2011-09-17 19:28 | ねこと鳥 (cats&birds)

『ガダルカナル』あとがき

 『ガダルカナル』あとがき 五味川純平  1980年6月

 最近防衛論が盛んになっていす。いままで防衛問題そのものが選挙の争点になることなどほとんどなかったのに、今年はそれが重要テーマになっている。アメリカから日本の軍事費の増額、したがって当然に軍事力の増強を公然と求められてから、さながらお墨付きを頂戴したかのようなはしゃぎぶりである。私はここで防衛問題を論ずるつもりはないが、たまたまいままでに行われている防衛論が、38年前のガダルカナル作戦と根本的に同質の欠陥を含んでいるので、ひどく気になるのである。

 自分の国を自分で護るのは当然だからといって、徒に仮想敵を想定し、その仮想敵からの侵略の可能性を宣伝して、防衛意識を煽るのは危険であり、有害である。日本が想定する仮想敵は、昔も今も変わりはなく、いまでは世界の二つの軍事的超大国と謂われる国の一つである。私は日本が平和政策に徹していて、紛争解決を武力に依存しようとしたり、他国間の紛争にしても何れか一方に軍事的にくみすることがない限り、外国から侵攻されることはないと判断しているが、防衛増強論者が使いたがる論法、もし万一侵攻されたら、ということが、現実的にではなく、想像的、論理的にはありうるので、次のように言っておく必要がある。侵攻があり得るとして、その場合、日本がどれだけの軍備をすれば、軍事的超大国からの想像的・論理的にはあり得る侵攻に対して、自分の国を自分で護ることが出来るというのであろうか。それが出来ないから日米安保体制を堅持するのだという論法に自主防衛は直ぐ席を譲ってしまうが、何処の国が他国のために莫大な軍事費を使い、血を流してくれると信じられるか。それが信じられないから、際限もない軍備拡張を行って、軍事大国への道を歩むのだとは、いまのところ防衛力増強論者も言いかねているのが本音であろう。

 だた、私がここでガダルカナルとの関連において言いたいのは、そのことではない。他国からの侵攻に対する 防衛戦争が想像的・論理的にあり得ると想定するのなら、日本を構成する4つの島全体がガダルカナルと同様の運命に陥ることがあり得ることも、想像的・論理的に想定されなければならない、ということである。

 周知の通り、日本はエネルギー政策一つ満足には立っていない。所要石油のほとんど全部に近い量を海外に依存している。食糧も所要量の約60%を輸入に依存している。それでいて稲作の減反など、食糧自給とは逆行する農業政策をとりつづけている。家畜〈禽〉資料までを食糧に含めれば、全所要量の80%を海外に依存しなければ、日本は生存できなくなっているのである。食糧と石油は、日本にとっては、核兵器同様に、致命的な戦略兵器になってしまっていると言っても過言ではない。

 食糧がなく、燃料もなく、軍備だけがあって、どれだけ自分の国を自分で護るというのであるか。他国からの侵攻が想像的・論理的にあり得るとしたら、そのときには、食糧の輸入も燃料の輸入も断たれていることが、想像的・論理的に予想されなければならない。厖大な輸入物資を運ぶ船舶のための海上護衛戦など、これは想像的・論理的にさえ不可能である。輸送船の上空直掩などなおさら出来ない。斯くして、日本列島は、本文に述べたガ島戦の惨状を量質ともに拡大深刻化して再現することにならざるを得ない。

 日本の軍事専門家は、昔も今も、局部的戦闘だけを問題にして、戦争を組織する後方一般に周密な思慮をめぐらすことをほとんどしない。後方を考えたら、戦争などとても出来ない条件が、あまりに沢山あるからかもしれない。

 かつて日本軍は、ノモンハン(昭和14年)でも、ガダルカナルやニューギニアその他太平洋戦域の各地でも、戦闘に際しては、確かに勇猛果敢であり得たが、戦争を組織する作戦家たちや、彼らを支持する政治家たちは、戦争組織の事務段階で粗雑であり、希望的予断に陥って思考的に未熟であった。戦力諸元の調整と準備と集中がほとんどいつも不十分であり、いつも齟齬を障子、不足を来し、ために戦闘を不如意に陥らしめた。自国の矮小の規模においてしか敵の力量を測定せず、将兵の武勇のみを盲目的に過大評価して、敵の戦意と戦力を下算し、結果として惨憺たる敗北を喫した適例が、ガダルカナルでありニューギニアであった。敵の強靭な戦意と戦力に気づいたときには、もはや火砲も弾薬も、食糧さえも揚陸不如意に陥っていたことは、本文で再三指摘した通りである。端的に言って、戦争を科学的に構想し得る軍人も政治家も、かつての日本には必要額だけ育っていなかった。現在もそうとしか思えない。何故なら、防衛問題が軍事的側面においてしか捉えられていないからである。現在の自衛隊も思考においては本質的に昔の日本軍の欠陥を、ほとんどそっくりそのまま受けついでいる。たとえば、自衛隊は、日本の備蓄石油の半分をまわしてくれれば1年半ほど戦えるなどと言っているそうである。これなど自衛隊のみあって国民生活など全く度外視していることの表れであり、自衛隊は国民のものではないことをみずから暴露したものである。自衛隊が計算上は1年や1年半ほど戦えるとしても、国民生活と生産は、燃料や原料の補給の保障がなく、僅少な石油備蓄の半分だけで如何にして成り立つのか。つまり、国民生活の破綻は自衛隊の破綻でもあることを、自衛隊は考えたくないから考えないのである。食糧事情からも、救い難い破綻が、もっと陰惨な形をとって現われることになる。昔の国軍も、開戦の前夜段階から、日本の国力に関して、悲劇的な結論が導き出されることを嫌って、考えたくないことは考えなかった。そのことは、開戦決定までの御前会議を辿ってみれば明らかである。

 ガダルカナルやニューギニアの戦訓は、40年近く経っても生きている。日本は職業的軍隊を作って、それが武器をとって戦えるような国には出来ていないのだ。軍隊が重武装したからといって護れるような国ではないのである。今日日本人は日本が経済大国にのし上がったことを誇っている。実はこの経済大国、先に述べたように石油の面からいっても、食糧の面からみても、膨らむだけ膨らませた風船玉のような「経済大国」でしかないのだが、形の上だけのことにもせよ、とにかくここまで来たのも、敗戦後軍備に金を使わず、もっぱら経済再建にいそしんできたからにほかならない。それが、重要資源も食糧も自給率のきわめて高い真の経済大国であるかのような尊大な錯覚を起こして、軍備による防衛などと主張しだすと、日本4島はガダルカナルの悲劇をみずから拡大する途を選択するにひとしいことになる。

 軍備が強大であるからといって、国家も民族も尊敬されはしない。まして、愛されることはない。「万一」犯されれば、民衆がこぞって抵抗に起ち上がる。その決意と気概が民族の威厳を保つのである。

 現在の防衛力増強論者は、斯く斯くの施策をもってすれば、日本がガダルカナルの戦史が遺した悲劇を繰り返す懼れはないという物的証拠を明示したうえで、増強論を唱えるべきである。先のオイル・ショックのとき、たかがトイレットペーパーで大騒ぎをした日本人の醜態は、まだ世人の記憶に残っているはずである。食糧の輸入や石油の輸入を、謂わば累卵の危うきに置いたままにして、防衛力増強論者は彼らが好んで言う「万一」のときに、破滅的事態を如何にするつもりなのか。補給を断たれた場合には備蓄に依存し得る機関など僅少であることは明白であるにもかかわらず、それには一切触れずに、防衛力の増強を煽って国民を惑わすのは、無責任である。

 同時に、一定の戦力(一定という概念はきわめて不確定だが)を持つことが、他国の侵攻に対する抑止力になるという論法は、40年前の日本自身の行動に鑑みれば、虚しい迷信に過ぎないと知るべきである。当時、日本は、世界の兵器廠をもって自認していた米国に対して戦争を仕掛けた。あのころ、石油備蓄が600万トンしかなく、仏印(ベトナム)産米七百万石を捕らなければ食糧の需給調整が出来ず、戦略重要物資の生産高の比較が米日の間で74対1でしかなかった、国力衰弱が誰の目にも明らかであった日本がである。つまり、戦力を持つことは、それ自体では侵略に対する抑止力にはならないことを、日本はみずから証明したのである。

 日本人は、よくよく、失敗の教訓を教訓とはしたがらないらしく見える。軍人や政治家が特にそうである。ノモンハンからガダルカナルまでちょうど3年、ノモンハンでしたたかな実物教育をくらいながら、ガダルカナルではより深刻な用兵の失敗を繰り返した。40年近く経って、まだその認識と反省がないのはどうしたことであろうか。ガダルカナルやニューギニアで餓死した夥しい壮丁は、40年後、祖国の進路の選択に関して、何も言うことは出来ない。実際には、彼らを餓死せしめた罪の一端を負うべき者が、現在の日本の進路の決定にあずかっていたにもかかわらず、死者は永遠の沈黙を強いられたままである。

 (中略)

 追記
 あとがきを書き終わったとき、選挙史上初の衆参同時選挙の開票の最中であった。結果として、自民党が衆参両院で圧倒的多数の議席を獲得した。選挙戦最中の大平首相の突然の死が劇的な作用を及ぼしたという側面はあったにしても、あれだけ自民党の金権腐敗体質が批判の対象となっていたにもかかわらず、選挙民の意志表示は、政治が汚れていようが腐っていようがかまわない、ということを数字で示したのである。これで、80年代初頭からの数年間に日本が著しく右偏向することが明らかになったといえるであろう。

 それと符節を合わせるかのように、6月25日の新聞(毎日新聞夕刊)は、米国政府専門家グループによって作成された報告書が、日本の今後の防衛力拡大で「核武装選択ありうる」と明記していると報じた。日本の軍事力拡大論者は、これでますます勢いづいて、国民が軽率に自民党に圧倒的多数の議席を与えて一党独裁を許して機関に、日本を「軍事大国」の道へ意気揚々と推進することになるであろう。その過程で負担と犠牲を強いられるのは、ほかならぬ国民だが、具体的にそうなるまで、国民の過半数は、1980年6月の自分たちの政治選択の意味を知ることはないのかもしれない。
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by lumokurago | 2011-09-16 15:46 | 平和