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暗川  


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by lumokurago
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前沖縄県知事・大田昌秀さんのお話

去年の8月の講演です。大田さんにはJANJANに載せる許可をいただいたのですが、お話が多岐に渡り、まとめきれず、作業も中断していました。もったいないので、ここに掲載させていただきます。大田さん、すみません。

アメリカ公文書館で見つけた公文書を基にした大田さんにしか聞けない興味深いお話です。長いですがぜひお読みくださいますように。

*****

8月31日、東京杉並にて〈戦争体験者100人の声〉の会主催で元沖縄県知事大田昌秀さんの証言を聞く会が開かれました。大田さんは学生時代に高円寺と阿佐谷に住んだことがあり、杉並が大変懐かしいとおっしゃっていました。以下、報告します。

アメリカ公文書館に通って

沖縄戦というものは調べれば調べるほどむずかしくなってくるものです。沖縄戦の全容を把握するためには、沖縄の住民の証言だけではなく米軍、旧日本軍の記録を丹念に集めてバランスよく分析した上で、総合的にみていかなければならないと考えています。そういう立場から20年あまりもアメリカの公文書館に通い、アメリカ軍の資料とか戦前の日本軍の資料を集めてきました。




大江・岩波裁判のために何かいい資料がないかと、この5月にワシントンの公文書館に行って調べたところ、慶留間島という人口100名そこそこの島で53人が「集団自決」し、米軍が住民を捕虜にして住民の話を記録した資料が見つかりました。一般的に「命令」は英語で「order」と言いますが、その記録には「order」ではなく「persuade」したと書いてありました。「persuade」は「説得する」ですから「命令」よりは強制力が弱いように思えますが、家族を殺せと命令されてもきかない人がいるわけです。それに対して米軍が上陸したら女性は犯された上、素っ裸にして戦車の前にくくりつけられるとかさんざんそういうことを言って脅して説得した。家族を殺せというわけですから、「persuade」の方がもっと強いのではないかと感じたのです。

毎年沖縄では6月23日に慰霊祭を行っています。6月23日というのは沖縄守備軍の牛島司令官と長参謀長が自決した日、つまり旧日本軍の組織的な抵抗が終わった日ということですが、私は疑問を持っています。6月23日ではなく22日が正しい日ではないかと考えています。アメリカの公文書館で沖縄戦の写真をたくさん見ていますが、牛島・長の墓標には6月22日と書かれているのです。

牛島・長さんの自決について、多くの日本の新聞とか単行本に「武士道にのっとって腹切りして自決した」と書いてあります。それを介錯した兵が首を持って逃げようとした時に、米軍が攻撃し、首が飛び散ったということになっています。しかし、今回調べたところ、6月16日に自決したという説と21日という説と22日という説、23日という説の4種類の記録が出てまいりました。量的には22日とする説が圧倒的に多いです。また、写真を見ますと首もちゃんとついているし、腹切りした形跡は全くありません。

若泉敬とキッシンジャーの密約

話は飛びますが、沖縄が復帰する時に京都産業大学の教授をしていた若泉敬という人が吉田という偽名でキッシンジャーと密約を結んだのです。どういう密約かと言いますと、日本には非核三原則がありますが、沖縄返還する時に沖縄にはいつでも核兵器を持ちこめるようにするという密約です。その若泉敬さんが1994年に『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』という本を書いています。これは沖縄を復帰させるためには核兵器の持ち込みを飲み込んでやるしかなかった、これを認めることで復帰を早められたら、沖縄県民にとっていいことだろう考えたという暴露本を死ぬ前に書いたのです。

そして、沖縄県民と当時知事をしていた私宛に遺書を遺していました。それが1昨年公開されました。核兵器を持ち込んでも沖縄復帰を早める方がいいということで密約を交わしたが、その後政府は基地問題にまじめにとりくまず、依然として沖縄は基地問題に苦しんでいる。大変申し訳ないことをしたと自責の念にかられている。責任を取って武士道にのっとって、摩文仁の丘で自決するということが書いてあったわけです。

結局自決はせずにがんで亡くなりましたが、亡くなる前の数年間は身分を隠して毎年6月23日にはひそかに沖縄を訪れて、慰霊碑に手を合わせていました。

鉄血勤皇隊

さて、「集団自決」で問題になっている「軍の命令がなかった」ということについてですが、私は10代の時に、鉄血勤皇隊といういかめしい部隊が結成され、120発の弾丸と2個の手りゅう弾を持たされて戦場に出されました。私のクラスメートは125名おりました。生き残ったのは40名ですが、彼らの体の中には砲弾の破片が入っていて、戦争から生き残っても戦後次々に死んでいき、ほとんど残っていません。私は千早隊という隊で、当時、首里城の地下に司令部があったのですが、その情報部からニュースを受け取って各地の壕に伝える役割をしていました。

自由主義史観研究会や「新しい歴史教科書をつくる会」の人たちが書いているのを読むと、軍隊が民間に対して直接命令を下すことはありえないということを書いていますが、そんなことはありません。口頭で命令したのです。僕らは半袖半ズボンの服で軍の帽子を被せられて、巻き脚絆もなく、戦場に出させられたのです。軍隊というのはその日の情勢について記録に残します。それを陣中日誌と言います。慶良間諸島では米軍が上陸した時に、沖縄守備軍から大事な文書は焼き払えという命令が出て、焼き払ったことも記録にあります。陣中日誌の80%位に「命令の下達は口頭をもってすべし」、やむを得ない時に文書にせよと書かれています。

文書による命令があるかどうかということはこれまで考えたことがなかったのですが、大江・岩波裁判が起こり、去る5月にアメリカに行った時に、私の所属した千早隊の隊長であった益永大尉に牛島司令官が直接命令した文書が見つかりました。牛島司令官の孫が署名を確かめ、本物に間違いないということになりました。これから「集団自決」の命令書も出てくるかもしれません。私が知事になってすぐにアメリカの公文書館に人を送って資料集めをさせましたが、今の知事になって予算を切ってしまいました。

なぜ沖縄だけが切り離されたのか

皆さんは沖縄が日本から切り離された理由について、沖縄戦で負けたからだとお考えの方が多いと思います。本土の国際政治学者などが書かれた論文には敗戦の結果、沖縄が日本から分離されたと書いてあります。しかしアメリカ公文書を調べてみますとそれは事実とは違うわけです。

米軍が沖縄を日本から切り離すことを考えたのは1941年に太平洋戦争がはじまって半年もたたないうちなのです。カイロ宣言(1943年)に、日本が強欲と暴力によって奪い取ったすべての地域から日本の主権は排除されるということが書かれています。日本政府は沖縄を暴力でとったのではないというわけですが、欧米の学者、中国の学者はそうはいっていません。日本政府は廃藩置県の時に、400人の軍隊と160人の警官を連れ込んで軍事力に物を言わせて行ったわけです。その前に薩摩の琉球侵略が1609年にあり、そのときも3000人の軍隊で攻めてきたわけです。

皆さんは沖縄が切り離されても当然とお思いかもしれませんが、戦争に負けたのは沖縄だけでないので、なぜ鹿児島とか宮崎とかが切り離されなかったのか、沖縄だけが切り離されたのか、私はおかしいと思っています。アメリカは北緯30度以内の日本の主権は排除し、米国占領下に置くとされ、鹿児島県の奄美大島も沖縄と一緒に切り離しました。

それはなぜか、アメリカの文書を調べますと、非常に早い時期から沖縄を切り離すことにした理由は、明治10年の廃藩置県の時に中国の外務省が、日本が沖縄を強制的に併合することに対して「沖縄を取れば、台湾も取り、朝鮮も取って、中国に侵略するだろう」ということを予言したのです。その通りになってしまったわけです。日本がアジア侵略の踏み台になった沖縄を切り離し、非軍事化して日本のアジア侵略の柱をなくすために沖縄を切り離したのです。そのことが恒久的に日本のアジア侵略を防ぐ道だと考えていたわけです。

では、沖縄の廃藩置県とはどんなものだったかというと、本土他府県の廃藩置県と沖縄では基本的に違う、本土は同一言語同一文化近代的な国民国家を作るためにやったが、沖縄の場合は日本の南に軍隊を置くための土地がほしかったんだと書いてあります。

廃藩置県の交渉の過程で明治政府はいろんなことを沖縄に指示したわけですが、その中に中国との関係を断ち切れというのがありました。沖縄は1372年から中国と密接な交流があり、中国に留学生を送ったりしていたので、これを断りました。もう一つ沖縄が最後まで反対していたことは軍隊を置くことでした。しかし政府は、それは政府が決めることだと強引に押し切って軍隊を置くようになったわけです。それが沖縄戦の不幸を招く原因になりました。

その時になぜ沖縄の人たちが軍隊を置くことに反対したかというと、沖縄では15世紀の終わりから16世紀の初めにかけて、王様がすべての人に対して武器の携帯を禁止したわけです。500年以上も武器のない国として海外にも知られていた。そして人々は争いごとを暴力によってではなく話し合いで解決するようにやってきたわけです。だから500年以上軍隊なくしてやってきたから、軍隊をおけば逆効果になると反対したのです。しかし政府はおどしをかけて強引に置いてしまいました。それも農民の肥沃な土地を取り上げて軍事基地を作ったのです。

沖縄の最大の問題は土地問題です。沖縄の7割から8割は農家ですが、農家から土地を取り上げたら食って行けない。53年ごろまでは沖縄県民の米軍に対する気持ちというのは友好的でした。というのは米兵に命を助けられた人がたくさんいたからです。ところが朝鮮戦争が起こって、兵舎を作る時に強制的に土地を取り上げられ、食って行けないので、アメリカが世界の国々に頼み込んで、ボリビアというところに移民させました。

沖縄の基地問題

次に申し上げたいことは、沖縄に米軍基地がなければ沖縄の経済は破綻するといわれますが、それは事実に反するということです。沖縄本島の20%が軍事基地に取られているというだけではなく、沖縄の空の広域の40%、那覇港はじめ29か所の港が米軍管理下にあるわけです。だから沖縄の人たちというのは自分の土地も使えないし海も使えないし自分の空も使えない状態におかれています。

私がハワイ大学にいた時、徴兵を逃れてハワイに移住し平和運動をやってきた沖縄出身の移民のおじいちゃんがいたのですが、彼が沖縄の基地は自衛隊と米軍の共同の管理のもとにおかれるだろうと予言し、今まさにその通りになっています。

私は参議院議員になりましたが、議会制民主主義は多数決の論理で成り立っていますから、少数会派が何を言ってもダメで失望しました。沖縄から国会議員は11名出ていますが、半数は政府よりです。理事会で少数会派はオブザーバーとされ、発言できません。何を議論するかを決めるのに全会一致制をとっているので、イラク派兵撤退の陳情を出しても理事会にもかけられずじまいでした。外交防衛委員会でも議論もされずにつぶされてしまいました。すべて多数決なので沖縄の基地問題は国会では全然取り上げられません。

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by lumokurago | 2009-02-08 21:38 | 沖縄
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