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未来の腐聰社版教科書より

 2005年の教科書採択後に書いた文章です。

*****

 大東亜戦争終結宣言であるご聖断より60年後、このきりのよい平成17年(2005年)の8月12日、石原県山田区で「新しい歴史教科書をつくる会」(以下「つくる会」)編著の扶桑社版歴史教科書が採択された。時あたかも第三次世界大戦前夜となる意義深い日だった。 

 「つくる会」副会長藤岡惟勝(のぶかつ)は政治並びに経済界で活躍した「平成のドン」と呼ばれる偉人である(写真入りコラム参照)。

 当時、わが小泉国は小米(こべい)安保条約に基づき、アメリカと同盟関係にあった。しかし占領軍に押し付けられた「小泉国憲法」は施行後一度も改正されず、第九条にいまだに時代錯誤の「戦争放棄」がうたわれており、わが国正規の軍隊を「自衛隊」としか位置づけられず 、時の首相小泉はアメリカ大統領ブッシュに対して肩身の狭い思いを強くしていた。

 同盟国のアメリカから軍事的にも援助が要請されていたが、この九条のせいで湾岸戦争時もイラク戦争時も、経済協力や国連平和維持活動(PKO)、あるいは戦後復興のための協力しかできず、アメリカはもとより国際的にも不満の声があがっていた 。

 この頃、アメリカは世界一富裕な軍事大国であり、アメリカについていればご安泰で、おこぼれを頂戴できる可能性もあり、小泉国では、アメリカの要請に是が非でも応えたいという世論が高まっていた。 それとともに、当時わが国は長く続く「不況」から抜け出せないことにあせりを感じており、政府はもう一度戦争をして「特需」を作り出したいと考えていた。

 また、大東亜戦争のことをいつまでもしつこく繰り返し、聖なる靖国神社参拝を妨害する中国や韓国にものを言わせないためにも、国力を増強することが国内からも求められていた。領土問題(竹島ーコラム参照)、拉致問題(コラム参照)の解決のためにも強い国づくりが必要だった。

 このような当時の小泉国の死活問題すべてに立ちふさがっていたのが九条であった。

 九条にこだわる一部「アカ」勢力を葬り去ることは赤子の手をひねるよりも簡単なことだが、この頃、ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎を筆頭に文学者、歴史学者、憲法学者など、当時社会的にも一応名の通った知識人たちが「九条の会」を設立し、日本全国で千から一万人規模の集会を行い、抵抗していた。この会は 当時の弱小マスコミにも一定の発言力があり、完全に無視することもできない状態だった。

 ★こういう状況で九条を破棄するためにはどんな手段が考えられますか。「アカ」や知識人たちに悟られないよう、正攻法ではない、だまし討ちの手を考えなさい。思いつくだけ考えて自分ならどうするか、みんなで討議してみよう。(ディベート課題)

 鍵はいつの時代も「教育」にある。小泉国では明治時代に政府による教育が始まってから、「教育勅語」を通じ、小泉国の国民たるもののあるべき姿を子どものうちに叩き込んできた。第二次世界大戦に負けたことにより、残念ながら「教育勅語」は占領軍によって表舞台から追放されたが、その精神は小泉国国民の中に連綿と引き継がれていた。それを今一度教育の場に復活させることが必要であった。それと共に、大小泉帝国憲法の復活が求められていた。そこには小泉国の国民として守るべき分際が明記されていたからである。

 これらを実現する方法として、藤岡惟勝は教科書を改訂するという偉業をなしとげた。それまで使われていた教科書は大東亜戦争を「アジア太平洋戦争」と言い換え、恐れ多くも天皇陛下の軍隊(皇軍)がアジアを侵略したなどという間違った歴史観にもとづいて書かれていた。今では定説となっているように、皇軍はヨーロッパの列強の侵略からアジアの国々を守り、独立への夢と希望を与えたというのが真の歴史である。またそれまでの教科書の中には皇軍が中国の罪もない人々を虐殺したなどというでっちあげも混じっていた。

 この教科書で勉強した子どもたちは皇軍に対する尊敬と感謝の心を奪われるばかりか、自虐的になり、自殺や自傷行為も増したと神話に伝えられている(コラム参照)。神話と歴史は違うものだが、神話の中にある当時の人々の心を理解することが大切である。

 藤岡らの扶桑社版教科書が採択されるまでにはいろいろな苦難があった。まず平成13年に初めて文部科学省教科書用図書検定に合格したが、この年の採択率は0.039%にとどまった。藤岡らは4年後のリベンジを期して更に内容を詰めた。しかし4年後の平成17年にも、当時まだ残っていた古い誤った歴史観を持つ文部科学省教科用図書検定委員によって、何度も不当な書き直しをさせられた。

 新しく進歩的なものは、こりかたまった頭を持つ学者、教員、それに市民の中の古い教育を受けた者には受け入れられにくい。藤岡らの進歩的な歴史観もその例にもれず、受け入れられるまでには幾多の困難を乗り越えなければならなかった。

 平成17年、 藤岡らはまず先鋭的な地域での採択をねらい、7月には早々と栃木県大田原市で採択を勝ち取った。しかし、その後が続かなかった。この年、藤岡らは10%の採択を目標としていたが、状況は思いのほか厳しかったのである。

 そんな中、次なるねらい目は石原県山田区だった。当時の山田区区長は名まえも「山田」で(フルネーム山田浩)、藤岡の直結の部下であり、忠誠心もことのほか強く、藤岡から絶大なる信頼を得ていた。山田はこの採択のために、山田区教育委員会5名のうちに藤岡の支持者2名と 自らの腹心の部下1名を送り込んでおり、採択は事前に決まったも同然であった。

 ところが、当時の山田区は過激派一派の活動拠点であり、彼らが純真で素朴な庶民を焚きつけて抵抗運動を繰り広げた。また、共産党が一部庶民を率いて騒ぎ立てていた。それらは弱く、少数にすぎず、一部革新系をも巧妙にとりこみ高い評価を得ていた山田の人気のおかげで全体にはなんら影響を及ぼさなかった。しかし、藤岡の側近たちは万が一のことも考え、慎重になっていた。

 当初、決定は8月4日に予定されていたが、8月9日から12日まで山田区の友好都市であった韓国ソウル市瑞草区に子どもたちが訪問する計画があり、4日に採択を決定すると、韓国側が大人気なくその計画を拒否してくることが予想された。そんなことになれば楽しみにしている子どもたちに申し訳ないと、山田区長は決定を延期する勇断を下した。それはまた、反対派を疲れさせ、逆に青年たちを主とする支持派の人々を鼓舞し、結束を強化する期間ともなった。

 特に4日の教育委員会で感情的な反対意見を述べた女性教育委員に公開質問状を送付したことは、支持者の意気高揚に役立ち、この頃盛んになりつつあったインタネットでの若者たちの交流を深めた。彼らは反対派のホームページなどを攻撃し、閉鎖に追い込み、結束の強さを証明した。また、反対派の庶民の活動をビデオに撮影し、ブラックリストを更新することにも貢献した。この活動は「肖像権の侵害」と抗議される恐れがあったが、警察権力の協力も得て、無事に遂行できた。
 
 彼らはまた採択日前日いち早く応援に駆けつけた。藤岡や関連した組や宗教に常日頃から世話になっている者たちをはじめ、「つくる会」支持の者のつながりから多くが集まり、若者の中からも自発的に勇士が集まってきた。藤岡の傍聴券を得るために、300人もが徹夜で並んだと伝えられている(コラム「神話」参照)。彼らの情熱と藤岡に寄せる厚い忠義心を私たちは学ばなければならない。彼らの力で藤岡は傍聴に入ることができ、教育委員の万が一の寝返りに備え、にらみを効かせた。

 こうして扶桑社版歴史教科書は山田区において無事採択された。このことは歴史に残る偉業である。同年度における採択率は0.39%にとどまったが、4年後の採択率は30%を越え、この山田区における採択が及ぼした影響は大きかったのである。藤岡の教科書は子どもたちのみならず、教員の思想教育にも役立ち、反抗する教員を処罰し淘汰することにも貢献した。時代的にも「アカ」の多い世代が定年退職を迎えつつある頃で、教職員組合、自治体職員組合などが衰退から消滅の一途をたどっていたこともプラス材料となった。

 この歴史的な採択の年の翌年には、戦後教育を「アカ」化してきた教育基本法が改正され、その5年後、憲法改正も無事行われた。

 コラム 「勇気ある先人たちは扶桑社版教科書に対する批判にどのように反論したのか?」 (山田区教育委員会議事録より)

・宮坂委員の発言より

 「扶桑社版教科書は戦争を賛美している」という批判がありますが、昔からわが国民には和の精神が流れています。聖徳太子の「17条の憲法」の17条には「独裁はいけない」ということが書かれており、その精神は明治憲法から今の憲法に引き継がれています。同じく10条には「考え方の違いで人を怒ってはいけないよ。話し合って決めましょう」と書かれています。この「17条の憲法」を全部載せているのは扶桑社版教科書のみです。つまり扶桑社版教科書には平和志向が流れているのです。

 これを載せていないから他の教科書が戦争賛美というわけではありませんが、他の教科書には戦争ばかり書かれています。しかも小泉国がアジアの国々を侵略し、かの地の人々にむごい行為を行ったという、現在でも きちんとした調査がされていない事柄が書かれています。それに対し、アジアの国の中にも小泉国を理解し協力する多くの人々がいましたが、それらの人々のことは一切書かれていません。

 また、韓国や中国から批判があるのは知っていますが、批判があるからといって自分の意見を彼らに合わせるのは、彼らに対する最大の侮辱だと思います。「われわれはこうだ」と言うべきことは言う方が正しいのです。それを理解してくれる韓国人、中国人は必ずいるのです。批判されたからと相手に合わせることは相手を対等な民族と認めないことです。

 「天皇は神聖にして侵すべからず」これは天皇は結果において政治責任を負わない、政治は議会が行うのだということが書いてあるだけなのです。この考えは戦後の象徴天皇制と通じるものがあります。明治憲法で天皇が独裁者だ、とするのは誤り。また、当時のことを今の善悪の判断で評価するのは間違いではないでしょうか。「天皇は神聖にして侵すべからず」は象徴天皇制を昔の言葉で書いただけのものです。

・大藏委員の発言より

 戦争はない方がいいに決まっているが、扶桑社は「ほんとにそうなの?」と冷めた態度で世の中を見ているのです。正義はいつも通るのでしょうか? 平和を守れと百回言えば、平和になるのでしょうか。冷めた見方が嫌いな人が反対しているのです。ばか正直でなく、「正直に言ったら損することは言っちゃいかんよ」という教育もあります。ヨーロッパでは割り切ることが上手で「自分が悪いと言っちゃいけないよ」と教えています。

・納冨教育長の発言より

 扶桑社版教科書は平和は無理だと皮肉っぽく、現実的に見ています。戦争はなくならない、その現実にたって、世界の平和にいかに貢献すべきか、という立場にある。他社の教科書は戦争の廃絶論にたっており、現実を直視していないと思う。現実を直視した書き方が、戦争を賛美しているとは思わない。 
 

by lumokurago | 2009-07-18 00:57 | 杉並区
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