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ひとつ下にある辺見庸さんの記事を先にお読みください。
昨日書き写した「悪魔」関連で、昔、こんな文章を書いたことを思い出しました。1989年11月発行の径通信№39(径書房)に掲載されたものです。 ***** 幼女誘拐殺人事件の容疑者として宮崎勤君が逮捕された。事件そのものも衝撃的ではあるのだが、その報道のされ方に私は今の日本の社会が抱える問題の深さを見る思いがする(中には良心的な報道もあるが、数少ない)。 そんな中で朝日新聞は8月24日付で、宮崎君の自宅に見物人が繰り出していることに触れ、「ひとの痛みに鈍い反応、“病根”見すえず排除に走る」という記事を載せている。その中には、「現場に群がる見物人について、『いじめの構造を見るような思いがする』」、「本当は社会そのものに、『宮崎的なもの』があるのに、それを認めたくないから、必死になって彼を異端者にしようとしているんじゃないかな」という識者の指摘がある。 これを読んで、私は中森明菜さんが自殺未遂した時の大人たちの会話を思い出した。「あれは狂言だ。本当に死ぬ気なら飛び降りとか絶対に死ねる方法を選ぶ」などと話していたのである。 私たちは今の子どもたちの「いじめ」の問題や、他者を排除することで自分の存在を認めようとするような言動、また、冗談として使われている「死ね!」だの「殺してやる!」ということばなどについて、他者の気持ちを思いやるようにとか、人の生き死ににかかわるようなことばは簡単に口に出してはいけないなどと言っているが、子どもたちはまさに私たち大人の言動を真似ているだけなのだということがここでも明らかにされた。 私はこの事件に対して全体を把握して今の社会の問題を語ることなど到底できないが、私が一番強く感じたことは、宮崎君は他者と関係を作ることが苦手で、私のつき合っている子どもたちもそうであるということ、そして、事件を知らされた私たち自身も同じなのではないかということである。 今の子どもたちは、自分を受け入れてくれると信じられる大人に対してぶったりけったりの暴力をふるい、それがじゃれ合うといった程度をとうに越えたものになり、「痛いからやめて」と言ってもなかなかやめない。それは甘えの表現と、自分をかまってほしいという気持と、心の中にたまっているモヤモヤを発散させているという面があると思う。また、男の子と女の子が遊ぶ時にはお互いにおいかけまわってけったりぶったりすることを遊びにしている。好きな子に対してそういうことをするのである。 私は子どもがなぜそこまで暴力的になるのかがわからなかったのだが、ある時ひとりの男の子が私をぶったりけったりした時に、近くにいた女の子に、「なんでこんなにひどいことするんだろう?」と言ったら、その子は「××君は先生が好きなんだよ」と言った。子どもたちは「こわい」人にはこんなことはしない。「こわい」人の言うことはきく。でも「好きな」人なら何をしても受け入れてくれるはずだから、何をしてもいいと思っているようなのだ。そこでその考えは間違っていると話しても通じない。私はこういう子どもたちと関係を作りたいと願い、努力したが、それはむずかしいことだった。子どもたちは関係を作ることが苦手なのである。 一方大人たちはどうなのかというと、先に書いたようなことから、他人のことは「他人事」として片づけ、その人の痛みに自分を重ねて考えたり、自分に引き寄せて自分をふり返ってみることができにくいということが言えると思う。それはやはり、人と関係を作ることが苦手だということである。他者の痛みを想像し、それに寄りそったり、他者を排除するのではなくどうしてそうなったのかを考え、共に苦しむことなくして、どうして関係を作ることができるだろうか。 一見すると残忍きわまりなく、人間がやったこととも思えないこの事件は、しかし宮崎君個人の「異常性」などから起こったのではないと私は思う。今の日本の社会のひずみが偶然彼の上に集中し、象徴的に現われたのである。私たちは彼を「異常者」として切り捨てるのではなく、社会のひずみを作り出しているひとりひとりとして今の社会を問い直すことで責任をとっていかなければならないと思う。その一番大切なことが人と人との関係を大切にできるような社会を作っていくことなのではないだろうか。 「おとなしく目立たない」生徒だったという宮崎君が一度でもいいから先生にほめられたり、自分の存在を認められる経験があれば、また心を開いて話し合える友だちがいれば、こんな事件は起こさなかったのではないかという気がしてならない。 情緒的な言い方になるが、彼はさびしかったのではないだろうか。さびしい人間はたくさんいる。物ばかり与えられ、心をないがしろにされている子どもたちも。 宮崎君は同じ時代に生きる私たちの「影」なのだ。 ***** ここで宮崎勤君の本名をだしたことに対して、読者から「容疑者の段階で本名をだすことには問題がある」という批判がありました。もっともなことです。あれから22年、日本の報道も国民もなにも変わっていませんね。 この頃、私はすでに子どもたちが人と関係を作ることが苦手になってきたことを指摘していますが、その後10年くらい経つと、職場で子どもたちとも親たちとも、子ども同士も親同士も、さらには職員同士も、人間関係がごくごく薄いものになってきたことを感じ、仕事がつまらなくなっていました。いまでは「無縁社会」が話題になっており、人びとの人間関係を作る能力はますます低下しているようです。もちろんそれだけだはなく、関係の作りにくい環境がはびこってきたことも大きいのですが。 人間というものはほんとうはもっと自然に包まれたシンプルな環境で、ものもあまり必要とせず、食べ物と時間があって家族や友人がいれば、ゆったり幸せに生きられるものではないでしょうか。 いまの私は浮世離れした隠遁生活ですが、じゅうぶんにこれを満たしていると思います。
by lumokurago
| 2011-03-03 17:03
| 昔のミニコミ誌より
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