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「80年代、日本のラディカリズム」

1月21日、阿佐ヶ谷ロフトAで早見慶子さんの「I LOVE 過激派」出版記念トーク「80年代、日本のラディカリズム」がありました。

出演者は早見慶子さん、外山恒一さん、中川文人さん、鈴木邦男さんでした。私は鈴木邦男さんのお名前にひかれてでかけましたが、「運動」に無知なので、よくわからないところもあり、詳しくメモをとったわけではありませんので正確な記録でないことをお断りしておきます。雰囲気だけお伝えします。

「過激派」や最近の「運動」に関心のある方はどうぞお読みください。




早見:9.11の後、アメリカがアフガニスタン、イラクに侵攻し、日本は積極的に支援しています。「テロって何?」を知ってほしくてこの本を書きました。すてきな人も過激派になって、一生けんめい生きてバカやっても人生なんだよ、ということを言いたかったのです。ここにはあまりにも赤裸々に書いたので親に見せたら・・・と思い、勇気がいりましたが、やっと勇気が持てました。それより今日ここにいる人はもっと勇気ある人でおもしろいです。

鈴木:親に見せたの?

早見:まだです。地元の書店に置いてないので。でも、今度トークイベントがあるので、その時わかっちゃう。

鈴木:どんな親?

早見:父は公務員で、父母共に戦争を経験しています。

鈴木:学生運動といえば60年代後半が印象にあって、同じ頃ベトナム戦争や中国の文化大革命がありました。あの頃は世界中で学生運動があって、やってない人はバカみたいで、学生なんだからその位しなきゃという雰囲気があった。大企業も(学生運動経験者を)雇った。あの頃、「過激派」という言葉はなく、まじめな人、エリートでした。それも1970年、安田講堂で終わりました。その後、数で威力を表せないのでゲリラや過激なことが出てきて、よど号ハイジャックがあり、11月に三島由紀夫が自殺、1974年には東アジア反日武装戦線の連続企業爆破事件がありました。残った人間が墓穴を掘って70年代ですべて終わり、記憶が止まっています。80年代なんて学生運動はなかったと思っていました。一水会は非合法活動をやりました。中川さんは何がおもしろかったの?

中川:僕はみんながやってたらやってなかった。1985年に法政大学に入学し、200人位ヘルメットをかぶってました。みんなへそ曲がりだった。今の学生は政治なんかには何も求めないですね。

外山:僕は1970年生まれですが、地方にはノンセクトの運動が残っていました。

中川:連合赤軍は小学校の授業でテレビで見ました。親も呼んで討論しました。

外山:プロテスタント系の私学でしたが、中学校で30代の先生に三里塚のことを習いました。その先生の授業は教科書を使わず、毎回プリントで世界、日本にどんな問題があって今、どんな闘争があるかを習いました。リベラルな校風で、無意識に影響されていると思います。高校で管理はおかしいと思い、日本の支配者たちがこういう高校にしていると思っていました。

鈴木:なんでシンパシーを持ったの?

早見:自由でありたいということで校則を破り、始末書を書かされました。

外山:全共闘の頃は高校生も普通にやってたと思いますが、僕の頃は学年に一人二人は残っていました。

鈴木:60年代なら運動に入るに勇気はいらないけど、80年代では「過激派」になるよね。なぜわざわざ危険なものに入ったの?

中川:危険だからです。法政大学には危険な香りがむんむんと漂っていました。高校時代は暴走族で危険なことをしていました。

早見:私は女性だから危険なものは好きじゃない。母親として育てる方だから。破壊は受け入れられませんでした。問題意識はありました。民学同が共産党から分かれ、自治会を占拠してたけど、学費値上げ反対とかものとり闘争しかしていませんでした。(注:私は学生運動・ことにセクトについて無知なので、このへんはよくわからず、間違っているかもしれません)。

外山:諸外国の盛り上がりを見て、ああやればいいと思うが身の回りにはありませんでした。

中川:仲間を殺して埋めちゃいかないというのが教訓となっています。

外山:連合赤軍があったから、ある程度で止まる。

早見:絶対にいけないことは理解・分析して教訓にしなければ。

中川:60年代との最大の違いは共産主義者はごく少ない、50人に一人いるかどうかで、大多数は「気にくわない」「オレをなめてる」って感覚でやってる。

外山:子どもは不満を持つのであって、これは立ち上がらなければと言えば何人かが立ち上がる。

鈴木:組織に入ると自由に言えない、感じてもいけないということがあるでしょ。「自分たちは外の人間とは違う。これだけもの考えてる。一般の人のようじゃいけない」という「まとめ意識」がある。

早見:後輩でオウムに行った子もいます。個人の拘束、献身性が要求され、抑圧された集団活動なのです。

中川:街頭で署名を頼まれると断れないような人がセクトに入る。創意工夫するおもしろい人、はなばなしい人はノンセクト。

早見:私は誘われたことを断ったことがない。

中川:京都精華大学の松尾さんていう人が中核派の組織論マニュアルを書いてる。女の子1人オルグすれば男5人ついてくるとか、女がオルグすれば、男は「この子を救わなくちゃ」ということで入ってくるとか。セクトの女性は依存性が強く、なんでも言うことを聞いてくれる。

外山:初期のピースボートに対して新左翼は「恵まれた国の学生が世界中を見物に行く」と言って反省しろと言った。でもピースボートは開き直って「好きでやってるんだ」と言った。「正しいことでなくて楽しいことやろうよ」というのが80年代のラディカリズムを切り開いていった。

鈴木:新左翼はそれに失敗した?

外山:第三世界のことを出されると、それは二の次、三の次。それより自分。

中川:第三世界の方がのんびりしてていいじゃん。

外山:フェミニズムの運動に対して、男性は「すみません」と言うだけ。メンズリブ東京はフェミニズムに屈服した男性の運動だったが、会社で抑圧されている自分の解放だった。抑圧された誰かを通して社会を考える。

中川:60年安保はみんなエリートだったけど、エリートじゃなくなった。

鈴木:過激派が都市伝説になっている。自治会を取れば、自治会費は天引きなので莫大な利権となる。早稲田で普通の学生が殺されて、それでアンタッチャブルになっている。

外山:60年代、70年代は自治会を握って手放すまいとしたが、80年代は拠点を大学に作るという発想でなくなった。

まず、自分の問題をなんとかしたい気持ちがあって、そしてベトナム戦争は無関係でないと思って・・・という順序。生徒には自由がない、自由になりたいと自由にこだわっている。

鈴木:当時は自民党、右翼も自由を求めていた。

外山:イラク戦争にはベトナム戦争の時よりももっと加担しているのに、今は諸外国のことを身近に感じる回路が途切れている。自分のこと(小状況)と世界(大状況)がリンクしなくなった。

「それはなぜ?」と会場から質問が出て、その話になりました。その理由としては、昔は反安保、反戦平和、三里塚と課題が単純だったが、今はそれに加え、反原発、公害、薬害、食品、環境、教育・・・、などなどと個別課題があまりにも多くなって、それに対する理論もマルクス主義のように統一したものがなくなった。不満の表明しかない。スローガンを叫んでいるだけ。今、必要なのはネットワーク、○○主義に代わるもの、束ねるものではないか。ということで外山さんは新しい党を作るそうです。

by lumokurago | 2008-01-24 21:26 | 社会(society)
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