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脱原発国民投票へ

最首塾からのお知らせです。

先日、朝日新聞の記事に、「脱原発国民投票へ」とあったとお伝えしました。
早速、連絡・問い合わせ先に連絡し、署名用紙をいただいてきました。

「ほしい」という方もいらっしゃると思いますので、最首塾のホームページ上にアップロードしておきました。

【追記】最首塾世話人より、この署名用紙の記載には明らかに間違い(「新たな国民投票で原発の安全が確認されるまでの間、原発の増設・新設を一切禁止する」の部分)と思われる点があるので、問合わせ中とのことです。答えが来たら、またお知らせします。

【追記の2】世話人よりのメールを転載します。

みなさま

度々たびたび失礼いたします。

本日の日中に「脱原発国民投票への署名活動」について、請願事項部分に誤植があるのではないか、とお伝えしました。

その後、先方からご連絡をいただき、

「新たな国民投票で原発の安全が確認されるまでの間、原発の増設・新設を一切禁止する」の意味は、

「将来、原子力発電の技術が格段に進歩した場合、改めて新たな国民投票をおこない、その原発が安全であるか否かの是非を国民に問う(国民が原発の安全を支持するか否かを確認する)。それまでの間は原発の増設・新設を一切禁止する」

ということだそうです。

確かに「新たな」という言葉を文字通り受け止めれば、このような意味になりますね、、、。僕は法律制定時から見て、直近の今度新しくおこなわれる国民投票=今回実現を目指す国民投票と受け取ってしまいました。

また、僕が気になり、質問したことのもう一つに、「日本在住であれば国籍は問わない(ただし、国民投票の投票権者は、日本人に限定していることをご理解ください)」という箇所があります。つまり、日本国民でなくても署名はできるが、投票権者は日本国民だけである、たとえば永住外国人は抜かされるということです。

僕が疑問に思ったのは、この規定が何らかの法律や判例に基づいてなされたのか、それとも会の思想信条に基づいてなされたのか、ということでした。それに対する先方の答えは、これは最高裁の何とかという判例――すみません失念しました――に基づいている、というものでした。

以上二点、事務局内でもコンセンサスを得るのが難しく、ずいぶん議論したそうです。結果、脱原発国民投票の実現を最優先として、最高裁の判例に基づくことにし、(国民投票による)原発再開の可能性も残したとのことです。

ややこしいことを長々と書いてしまい、大変失礼いたしました。もし今回と同じような質問があった場合、以上のようにお答えくだされば幸いです。

それでは良いゴールデンウィークをお過ごしください。

丹波博紀
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by lumokurago | 2011-04-27 18:03 | 原発

福島第一原電の事故対応について要望書を東京電力に送りました

 福島第一原電の事故対応について要望書を東京電力に送りました

2011年4月26日
NPO法人 株主オンブズマン

 ★ 原発事故の概要がわかりやすくまとめられています。
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by lumokurago | 2011-04-27 17:57 | 原発

大江岩波沖縄戦裁判の背景と意義

 4月21日、最高裁判所第一小法定において、大江・岩波沖縄戦裁判の上告棄却と上告不受理が決定しました。沖縄タイムス(2011.4.25)より、ジャーナリストの新川明さんに裁判の背景や意義について聞いた記事を転載します。(聞き手=社会部・吉川毅)

 記録継承 生きる者の責任

 ――最高裁の判断をどう受け止めたか。

 「訴訟を起こした原告団のもくろみが、政治的意図を持つものだった。(最高裁が)軍の関与を認めたことは当然の結果だ。ただ、沖縄戦の問題はこれで終わりではない。争われたのは、沖縄戦のほんの一部分だ。軍隊は住民を守る存在ではないという本質を忘れないための教訓として最高裁の判断を受けとめ、沖縄戦の問題をどのように追求し、深めていけるか。これは今生きている私たちの責任でもある」

 ――裁判の意義は。

 「第一は、沖縄戦の真相の一部が裁判によって確認されたことだ。もう一つは、軍の関与を削除させた文部科学省の教科書検定が否定されたこと。真実を学方向にどれだけ進むのか懸念は残るが、その第一歩になった」

 ――提訴から約6年におよぶ裁判の背景をどう見るか。

 「裁判の長期化に、戦後の歴史に逆行する歩みを感じた。日本が右傾化し、憲法改正の動きが顕在化していることにつながる流れだ。この流れが訴訟という形で現れた」

 「訴訟を起こした元戦隊長は、旧日本軍を美化する黒幕に踊らされたのだろう。1988年に元戦隊長と話をした際、『日本軍がやらんでもいい戦をして、住民に迷惑をかけたのは歴史の汚点だ。今後この問題に触れることはない』と私に明言した。それなのに訴訟が起きたことは残念だ」

 ――裁判では体験者が胸に閉じ込めてきた記憶を語った。今後どう生かすべきか。

 「歴史を学びなおし、継承することが大事だ。体験者が高齢化する中、若い世代が体験者の語りを繰り返して効き、共有し、“当事者”となった立場でさらに語り伝えていく。事実を曲げようとする動きを止めるためには、沖縄学研究者の屋嘉比収さん(故人)が強調した『当事者性の獲得』がキーワードになる」

 「裁判が象徴したものに、戦前から今まで変わらない沖縄に対する差別の構造がある。沖縄は戦争で捨て石となり、住民虐殺や『集団自決』があった。その後も米軍基地の問題がある。今回の裁判は、沖縄差別の構造の中の一点でしかない。これを沖縄も本土も自覚し、沖縄から繰り返し発信しなくてはならない」

 ★ 関係記事としてJANJANに書きました。JANJANはブログに移行し、元の記事は消されてしまいました。これらは消されるまえに写し取ったものです。

 消せるものか沖縄戦「集団自決」 高嶋琉球大教授が講演 2007.6.8

 「沖縄」はなぜ歪曲、攻撃されるのか 2007.10.25

 沖縄戦検定問題が投げかける「いま、なぜ?」を林教授が講演 2008.2.11

 取材記者が語った「集団自決」の真実と体験者の深い心の傷跡と 2008.4.9
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by lumokurago | 2011-04-27 10:00 | 沖縄

原発20キロ圏警戒区域に残された犬と猫

 レイバーネットより引用します。

 4月23日、前日「警戒区域」となった福島第一原発から20キロ圏内。そこには飼い主に取り残されてしまった動物たちが、今も必死に生きている。動物たちへえさやりをするために入った、その日の記録を残す。浪江町へ入る国道114号線を行くと、20キロ圏内への立ち入りを禁止する検問地点にいたる。20キロ圏内立ち入り禁止ということから、検問は20キロ地点で行われているのかと思っていたが、実際には20キロ地点より数キロ手前ですでに検問は実施されていた。浪江町へ入り、行き遭う犬や猫へのえさやりを開始する。雨のせいか、車を走らせていても現れる犬・猫は少なかった。「朝方にえさを探すのか、早い時間帯に出てくる犬は多いんだけど…」と同行者は話した。途中、6号線で犬が2頭車に轢かれ死んでいた。

つづきはこちらです。映像グループ ローポジションのブログ
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by lumokurago | 2011-04-27 09:50 | 原発

怒った農民!東電前に結集~牛とほうれん草をひきつれて

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 4月26日昼、チェルノブイリ25周年のその日、東京電力前の道路は、牛を積んだトラック2台横付けされ、ほうれん草が山と積まれた。福島・茨城・千葉の農民連のメンバーら250人と支援者あわせて350人が、歩道いっぱいに並んだ。日に焼けた農民の顔は険しい。メディアも殺到した。「東電 俺げの田んぼ汚したな 許せね~」「モウがまんできんゾ」「安全神話はウソだった」「牛と土地を返せ」、プラカードのどの言葉にも怒りが煮えたぎっていた。代表団は、東電に「原発被害の損害賠償をただちに行え」と要請した。東電の部長が、ビルから出てきて謝罪するシーンもあった。またある農民はNHK取材班に対して「チェルノブイリ 20年後の真実」を再放送するよう強く迫っていた。(M)

 レイバーネットより無断転載 

 動画
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by lumokurago | 2011-04-27 09:33 | 原発

高齢技術者「若い奴にはやらせない」

 週刊金曜日 4.22 金曜アンテナより転載

 福島原発を注視する技術者、山田恭暉さん(七二歳)がこのほど「福島原発暴発阻止行動プロジェクト」を呼びかけている。山田さんは住友金属工業で技術者として三〇年勤続した経験をもとに、技術者仲間との議論の末、以下のような決意を呼びかけた。

 (1)原発の暴発を防ぐには、一〇年作動する冷却設備を設置しなければならない
 (2)高度に放射能汚染された環境下での作業となる
 (3)それができなければ広範な汚染が発生する可能性がある
 (4)阻止するには、現場作業や技術を蓄積した退役者たちが次世代のために働くしかない。

 当然、被曝するわけであり、大半の人間は賛否の判断にとまどう。「人のせいにしているのは気楽なことですけども、我々は原発で作った電気を享受し、それを許してきた」と山田さんは決意の理由を次のように語る。「被曝の制限で一〇分、一五分で帰ってこなければならない中ではまともな設備は作れない。三、四時間続けて作業をしなければというのが私たち技術者の実感。ロボットを使うにしても、手で触りながらやらないとできない仕事が残る。誰がそれをやるか。自衛隊がやればいいと言う人がいるが、若い奴にやらせるわけにいかない」。

 実現の道筋も探り始めている。「東京電力に言っても受け付けないでしょう。政治の力を使わない限りこのプロジェクトは実現しない」との認識で政治家と話し、「長期にわたる国の体制として退役した元技能者・技術者のボランティアによる行動隊を作ることを提案」したいと呼びかけ文に記した。「原発専門の技術者に聞くと数カ月なら応急措置でも回せる。その間、作業の訓練を一、二カ月行なう。技術者といっても原発作業の専門家ではありませんから」と実現可能性を追求する。

 「反対や批判は承知の上。だけど最悪のシナリオを書いて、やらなければいけないことからやる。これは技術者が心をこめてやらなければ。報酬があってやっちゃダメです」と捨て身である。

 五〇〇通のメール、二〇〇〇通の封書で呼びかけを始め、すでに二五人が参加を表明した。この覚悟を東電と政府はどう受け止めるのか。プロジェクト連絡先は山田恭暉さん電話番号 03・5659・3063

 まさのあつこ・ジャーナリスト

 福島原発 暴発阻止行動 プロジェクト

 ★ 私も賛同したので活動報告が送られてきました。それによれば、現在(4.23)の行動隊希望者は31名、賛同者は126名とのことです。国会議員、有力者、報道、海外にはたらきかけているそうです。
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by lumokurago | 2011-04-26 13:50 | 原発

小出さんのことば

 小出裕章 (京大助教) 非公式まとめより、私が共感した言葉をぬきだしました。

・(情報公開のあり方に関して細野補佐官が記者会見の一本化を発表したが評価は?)分からない。もともと一本化は私は大嫌い。それぞれの意見を言う方が好ましい。一本化した情報が間違えていたらどうなるのか。

・(東電と、チェックする立場の国が一本化することについてはどうか?)国はチェックするどころか推進してきた張本人。それなのに偉そうにしている。まず自分たちが悪かったということを反省するところから始めるべき。

・(一時帰宅については食品や家畜の持ち出しは禁止されているが?)科学的には家畜持ち出しはできない。が、科学では測れないものがある。

・(ペットを持ち出すことについては検討されているが?)人もペットも汚染されている。スクリーニングをしながら人は逃がしたが、避難地域で亡くなった人については遺体の持ち出しもできず、難しい状態。

・(原発は未来のこどものために必要と政府は言うが?)でたらめ。負の遺産を残すだけ。原発を止めても、電力は必ず足りる。

・(原発が危険とどこで気づいたか?)元は安全で必要なものと思っていたが、原子力発電所を消費地に作らないことを見て、これはだめだと思った。それからは廃絶させることを目指している。

・(電気の需要が2000年以降急激に上がったといわれているが?)電力消費量があがっている。駅のエスカレーターも増えているが、私は足があるんだから階段を登る。不自由な人でない若い人もエスカレーターに乗るのが現状。階段がどこにあるか分からない建物も多い。何でも楽や便利が追求されている。不必要なものはどんどんやめて、生活を見直すべき。

 渡辺:ダイエットしたい人が(あなたたちのおかげで小学校1年生までダイエットしなくちゃと思い込んでいる悲劇。子どもにこれ以上荷物を背負わせないで!)エスカレーターに乗る考えがわからない。私も歩けたときはいつも階段を探してたっけ。階段をつかえばダイエットになるよー。それに自動ドアもいらない。不自由な人のためにはだれかが手を貸せばいい。エレベーターだけあればいい。

・(日本に原発は54あるがそれを全部止めても支障は出ないか?)出ない。火力は半分は止めている状態。原発は電気事業法という仕組みの中でこれまでは儲かっていた。これを再考しないといけない。

・(どのように生活すべきか?)汚染が少ないところに行ったほうがいいとは思うが、人間は土地を簡単には離れられない。生活には歴史がある。別の場所に行くと別な危険もある。被曝を少なくしてほしいとは思うが、それだけでは判断できない。

・福島を中心として食べ物は汚染されるが、国の基準で出荷停止をしたりすると地域の農業が崩壊する。従い、大人は汚染された食物を食べるべき。年をとるほど放射能の影響は少ない(60を超えると平均より100分の1の感受性)し、原発の存在を許してきた責任もある。ただし、乳児やこどもには汚染した食物を与えるべきでない。

 渡辺:大賛成。

・(こどもを守るために行動を起こすべき?)ひとりひとりで考えて行動するべき。

・(日本に暮らす外国人にメッセージを)日本が外国人に優しい国かどうか分からない。私が原子力に反対するのは専門的なことからということもあるが、根本の理由は、自分だけよくて危険だけ他人に押し付けるやり方が許せないから。都会には原発を作らないし、原発の労働者は社会の底辺の存在が多い。外国人で日本に暮らすのは大変だと思う。閉鎖的で冷たい面もあると思う。その国を変えるには外国人の力も必要。

・私が原子力に取り組み始めたときは日本の原子炉は3つで、今は54。私にとっては敗北の歴史といえる。それは私のような特殊な人間だけ反対してもどうにもならないということ。普通の人が原子力はどういうものか技術的な危険性に気がつくことが必要で、さらに原子力問題の本質が差別の問題だということに気がつけば止まると思う。だが、停電になると困るから原発は必要というのが日本の大多数であり、情けない。

 渡辺:私は人間は差別大好きだから、原子力問題の本質に気づいても原発は止まらないと思う。やっぱり「自分が」危なくならないと。ま、いまでも十分に危ないと思うけど、人間は目先の欲望しか見えないからなあ。小出さんは性善説だね。みるからにいいひとだもんね。

・どんな時代どんな場所でも、絶対にいいという場所などなかった。いつでも困難はあり、そこでもこどもが育ってきた。どんな状況でもおとなの責任はある。今の日本でも大人が責任が果たすべき。
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by lumokurago | 2011-04-26 13:06 | 原発

なぜ私は書きつづけ、送りつづけるのか

 なぜ私は書きつづけ、送りつづけるのか  『暗川』第21号1987.11.8より

「求めて求めて」のつづきです。
 
 『いま、人間として』8号にむけて、編集担当者のAさんから示されたテーマ――ミニコミ、コミュニケーション、人に何かを伝えること、自己表現、何のためにどうして書くのか、話をするのか――に原稿依頼を受けました。私が8年に渡りミニコミを作り続け、送り続けているからでしょう。Aさんは「なぜ『暗川』をだしているのかについて、手紙の形で書いたら」とヒントをくださったので、そのようにしてみます。

みなさまへ

 はじめまして。私は東京都杉並区の「学童クラブ」という子どもを預かる施設に勤めている者で、Aさんとは数年前の径書房の忘年会でお会いして以来、お互いの通信を交換しています。

 「なぜ暗川をだすのか」という問いに一言で答えるなら「出さずにいられないから」ということなのですが、それでは例の「なぜ山に登るのか」「そこに山があるから」に似て、そのひとことがすべてを表現していると共に、ひとことのなかにまた、数知れない要素がふくまれているわけです。

 私がはじめてミニコミ(個人誌)をだしたとき、『Burst』という名まえをつけました。吉野弘に『Burst 花開く』という詩があります。その一節につぎのようなことばがあります。

 ――諸君! 魂のはなしをしよう 魂のはなしを! なんという長い間 ぼくらは魂のはなしをしなかったんだろう――

 (“Burst”を吉野弘はここで「花ひらく」と訳していますが、「破裂する、爆発する、急に開く」などの意味で、私の『Burst』を「叫び」と訳した人もいます)。

 ふだん友だちなどと話はします。それは「魂のはなし」からかけ離れたものばかりではなかったと思います。しかし私はそれだけでは物足りなかったのです。書きたかったのです。いまの自分のまよいや悩みや怒りやかなしみなどを。
  
 さて、「書く」ことについてですが、私は「書く」ことは同じ「ことば」を使った表現である「話す」こととはまた違った意味をもつと思っています。「書く」ことで一番特徴的なのは「記録として後に残り、読み返せる」ということでしょう。もうひとつ、講演など特殊な例を除いて、「話す」ことは普通自分ひとりが何時間も長々と自分のことを話すのではなく、相手とのやりとりのなかで会話としてどんどん動いていくものだと思います。それに対して「書く」ことはあくまでも自分のなかに沈み込み、何時間でも自分と向かい合って自分と対話することです。だから「書く」ことと「話す」ことは、似ている部分はあるにせよ、機能が違うと思います。

 私が「書きたい」と思うのは、第一には自分自身に対する興味からきています。自分がいま、このときをどんなことを感じながらどのように生きているのか、また、明日にどう立ち向かっていくのか・・・そのことをいちいち検証したいのです。私にとってそのことは「書く」ことを通じてしかできないのです。「話す」ことが苦手ということもあるけれど、そんなことは理由ではなく、書きながら考える、この「考える」ことが私にとって大事だから書くのだと思います。書かなければきっと私はよく考えないと思います。考えを進めるためには、少し書いては読み返して考え、また書き進む作業が必要なのです。

 その上で私は書いたものを誰かに読んでほしいという気持ちが強いです。それは「何か言ってほしい」ということです。

 私は書くことが好きで日記や手紙、交換ノートの類をたくさん書いていましたが、複数の人に宛てて自分の思いや考えを表現したのは『Burst』がはじめてでした。私は『Burst』を当時私のまわりにいた身近な友人たちに配りましたが、彼らからは何ら反応がありませんでした。戸惑いながらだしたものについて何も言ってもらえなかったので、彼らがそれをどう捉えたのかわからず、困りました。しかし、縁あって読んでもらうことになった未知の人たちから共感が寄せられたのです。

 その経験によって私は「出会い」というものの意味を知ることができたように思います。「出会い」には偶然が作用するという要素はあります。しかし「出会い」を欲する強い意志は、偶然のなかにかなり大きな必然を生みだすことができるのだとわかりました。求める心が一番大切なのです。どれだけ強く、どれだけ大きな切実さをもって求めるのかが。

 私は「こんなにたくさん読ませて迷惑だろうな」と思いつつ、自分の個人誌を読んでほしいと思う人に一方的に送り続けてきました。それは「あて名のない恋文」とでも言うべき性格のものだと思います。恋文を受けとって「あて名」に名乗りをあげてくれる人を求めているのです。その求める気持ちの大きさと切実さが「こんなにたくさん読ませて迷惑だろうな」という気持ちを越えてしまうのでした。なぜならばどんなに稚拙であっても、自分を表現してぶつけていかない限り伝わることはないからです。どんなに拙くとも、いまの自分のギリギリの思いをできるだけのことばを使って表わさなければ、そういう自分との格闘がなければ、人と出会えたり、気持ちを通じ合わせたりできるはずがないと思うのです。そうやって8年に渡り表現し続けてきて、その間にたくさんの人たちと出会いを重ねてきました。それはほんとうにありがたい、何物にもかえがたい私の宝です。

 現在出している『暗川』という個人誌は1984年9月から始め、いま19号までだしています。これもはじめは私が読んでほしいと思う人に一方的に送っていたのですが、1986年10月に、いままでに手紙をくれたり何らかの反応をしてくれた人にはこれからも送るけれど、それ以外の人で読みたい人は申し込んでほしいという便りをだし、申込制にしました。部数が増えて大変で、それまでずっと送るのみで何らの返事がない人は、読んでいるのか捨てているのかさえわからず、そのへんを確かめて部数を減らしたいと思ったからです。

 結果としては、いままで反応のなかった人たちの大部分があせって便りをくれたり、電話をくれ、部数はほとんど減りませんでした。また、申込制にしたことは、読者の『暗川』に対する意識を転換させる役割を果たしたようです。それは一方的に受けとる立場から参加しようという立場への転換ということができると思います。また、それと前後して、発行者である私対読者の一人ひとりという関係だけでなく、読者間のつながりが生まれつつあります。このことは特別に意図したわけではないのですが、申込制にしたときにいただいた読者の便りで特集を組んだりしたことで、読者同士どんな人がいるのかを知ったということが大きかったのではないかと思います。

 私自身としては読んでほしいと思った人に、その人が応えてくれるかどうかは二の次にしてとにかく送り続けていた「あて名のない恋文」を「応えてくれなければあげないよ」と言っていったことに対して、「あれでよかったのか」という思いがありました。私は「いまは応えてくれなくても応えたくなったときに応えてくれればいいのだ」と思いつづけていたので。しかし結果的には「応えてくれなければあげないよ」とまでつきつけていったときに、たくさんの人たちが応えてくれたのでした。申込制にした意味については、まだ自分のなかできちんと把握できていないのですが、あれ以来、便りをくれる人の数が増えたことは確かです。

 これからも私は書きつづけ、それを人に送り続けると思います。それは自分を確かめ、他者と出会うことによって、明日へ、また明日へと新たな自己を求め続ける作業であると思います。
 
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by lumokurago | 2011-04-26 11:17 | 昔のミニコミ誌より

2011/04/26 牛も連れて。豚も連れて野菜を積み上げ、東電に抗議しよう。12時半

みんな集まれ。もう、黙っていてはだめ。原発止めるまで。
田畑と自然を汚し、生活を奪った東電本社(千代田区内幸町1-1-3)に集まれ。
牛も連れて。豚も連れて。犬も連れて。売れなくなった野菜を正面玄関に積み上げて。
全面的に償え。
自分の被った被害の損害賠償の請求書を持ち寄ろう。

おらも連れてってくれーモー。

                   森住 卓

福島原発10キロ圏内泣き叫ぶ牛たちの悲劇

 被害の損害賠償もそうだけど、精神的苦痛の慰謝料も請求すべきだ。もちろんお金には代えられないが・・・。私だったら気が狂う。
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by lumokurago | 2011-04-25 20:30 | 原発

3.11以後のDr.Aとのメール その6

渡辺より  4.21

 こんばんは。「主体」というのは「自分」のこと? 哲学者が存在しないと言っているのかもしれませんが、私は存在すると思います。(?) 

 「死は存在しない」も哲学者が言っています。生きているいま、考える対象であることはたしかだと思います。頭の中に存在していますが、哲学者の言う意味もわかりますね。わけがわからなくなってきました。人間はおもしろいです。

 ところで、昨日慶応病院に行ってきました。(中略)ついでに被ばくのことを質問したら、政府が国民に「このぐらいの線量を被ばくすればたとえばこのぐらいがんになる危険性が増す」と提示し、そこから避難するかどうか、そのなかで作業するかどうか、どう行動するかは自分で判断すべきものだと。おっしゃるとおりだと思いました。このことについて文藝春秋に書くべく調べているそうです。年配者ならがんになってもその土地に住み続けたいという人はいるだろうし、家畜を飼っているから避難したくないという人もいるはずです。自分で決めるのが自由というものです。危険区域に勝手に一時帰宅したら罰金と言っていますがひどい話です。

 それから、地球温暖化CO2説が原発を推進する理由にされているため、懐疑論がでています。このことについて聞いたら「勉強していないのでノーコメント」とのことでしたが、不況になったら大騒ぎして、経済発展をつづけていけというので温暖化をとめられるはずがないとおっしゃっていました。私も同じ意見です。

 私はCO2論自体、多数派で世界的に推進しているので、(多数派というだけで)どうも怪しいという感覚をもっており(被害妄想か?)、懐疑論にも一理あると思っていて、判断できません。先生はどっちが正しいと思いますか? 

 少しまえに寝返りをうつときや起きあがったとき、腰が痛くて、骨転移の痛みかと思ったのですが、湿布を貼っていたらおさまったので、様子をみようと思っていました。近藤先生にはそう伝えたのですが、帰宅したらまたその症状がでて、伝い歩きするにも痛く、ロキソニンを飲んで寝てしまいました。ロキソニンは効くみたいです。

 今日も裁判所にでかけ、帰宅したらまた、昨日ほどではありませんが痛かったので、また寝ていました。いま、起きたところです。やはり骨転移の痛みかもしれませんが、放射線は限界までかけてしまったので、あとは薬でコントロールするしかありません。寝返りをうつなどのときだけなので、薬を飲むほどでもないということと、オキシコンチン(まだ残っています)は吐き気がこわいのでちょっと様子をみてみます。


Dr.Aより 4.21

 こんばんは。本日、札幌へいく予定だったのですが、先方の都合で来週に延びてしまいました。本日も眠くて昼寝を一時間以上、熟睡しました。

 三輪自転車に先週から乗っていますが、安定しています。転びません。これはトライクと言って仙台のメーカーが造っています。電動アシストがついており、楽ですね。インターネットで買い、仙台から送られてきました。

 国は民を管理しようとしているのですね。パノプチコンです。というよりも、癩病やペストに対応したように国民を徹底的に統制しようしているのでしょう。訓練と処罰によってですね。市民の自由が剥奪されつつありますね。

 主体subjectは、objectの反対語で、どこからどこまでが主体なのか、判断が難しいと私は思っています。脳科学では、否定的なようですね。古くは、哲学的な論争があったようです。実存主義の一派は主体に固執していたようですが、構造主義によって否定されてしまったと理解しています。人間はある関係性の中で生きている。すなわち一つの構造に組み込まれているのであって、客体としての構造から無関係に主体として存在することはできないというのですね。

 自我というのも、心理学の用語に過ぎず、脳科学では否定的でしょう。しかし、自己という概念はあるのであって、非自己は自らのリンパ球が攻撃するのも事実です。哲学になると難しいのですが生物学や細胞学でははっきりとした境界がありますね。しかし、いずれ失くなっていくのではないでしょうか。免疫抑制剤などの開発によってですね。

 地球温暖化ですが、地層の研究では、古代より温冷を繰り返してきたようですね。これからは氷河期に向かうのでしたかね。歴史的にみると、温暖化には向かわないのでしょうが、どちらに向かうか難しいというのが結論ではないでしょうか。近々小惑星が地球にぶつかるという話もありますし。人間の考えているようにはいかないでしょう。

 腰痛、大事にしてください。少し動きすぎかもしれませんよ。(後略)


渡辺より  4.22

 三輪自転車、いいですね。私が自転車に乗っているというと、多くの人が「危ない」といいますが、大丈夫です。歩くより安全です。私はまだ普通の自転車で大丈夫です。

 昨夜、腰全体が痛重かったのでオキシコンチン5mgの半分を飲みました。いま、痛みはまったくなく、吐き気はありませんでした。飲んだり飲まなかったりして様子をみます。

 むずかしい「主体」については私の能力を越えています。「客体としての構造から無関係に主体として存在することはできない」というのはどういう意味か、私たちが現在の日本社会に生きている以上、それに囚われ自由になれない面はあると思いますが、そんな表面的な意味ではないでしょうね。むずかしすぎてとてもついていけません。ごめんなさい。フーコーも放りっぱなしだし。先生が往診に来られるようになったら、少し講義してください。subject, objectという単語から、英文法のs,v,oをついつい思いだしてしまいました(笑)。

 自己免疫疾患は自己と非自己を見分けられないのですよね。自分で自分を攻撃してしまうというのはどこでどう間違ってしまったのでしょうか。心理学者のなかには典型的な心身症だとする人もいますが、どうなのでしょう。遺伝は大きいのですか?
 

Dr.Aより  4.22

 こんばんは。オキシコンチンに慣れていくといいですね。人間は痛みに弱いですから、そのコントロール次第で人生の質が決まるといっても良いのでしょう。

 本日も眠く昼寝をたっぷりとり、三輪車で往診しました。後ろが一輪でそれに電動のアシストがついています。快適です。

 主体の問題は難しく、私にとっても厄介です。興味のあるかたは哲学書をひもとくのがよいのでしょう。構造主義のレビストロースも主体の全面否定はしていませんで、主体と客体のどちらに重きを置くかというような説明をしていたように記憶しています。色々な要素から現代社会は成り立っていますが、確かに個々の部分も無視できませんが、それらの関係性のほうが重要であるように私は思っています。

 性格と同じく病気も遺伝がほとんどを担っているでしょう。私の脳卒中も父方の遺伝です。仕方ないです。人間は群を作っていますが、これも遺伝でしょう。病気の種類が多いのも。ひとつだけでは直せない場合人類が滅んでしまいますからね。私は、母方に似ると癌かアルツハイマーなのですね。母は大腸がんと肺がんを切除し、結局アルツハイマー病になりました。私は手術に反対したのですが、がんもどきだったのでしょう、生き残ってアルツハイマー病という止めを刺されました。これも運命でしょう。脳こうそくの一年再発率は14%、5年再発率は50%です。これも遺伝で避けようがありません。人間は自然にあるいは遺伝に打ち勝つことはできませんね。

 来週は中学時代の同級生と会うことになっています。楽しみです。


渡辺より 4.23

 こんばんは。先生には悪いのですがむずかしいので話題を変え、また池田晶子さんの本から引用します。

 ソクラテス がんでなくても人は死ぬのだ。

 患者 私は、がんでは死にたくない。

 ソクラテス それならばぜひ、がんでなくとも人は死ぬと考えたまえ。そしたら君はがんでは死なない。ほら、この近藤さんて医者も、同じこと言ってるじゃないか。

 <がん治療の将来にも、たいした夢も希望もありません。しかしそのことを悲観する必要はありません。なぜならば、わたしたちの人生にとって、がんやがん治療だけが大切なものではないからです。わたしたちにとって大切なのは、自由に生きる、なにものにもわずらわされずに生きる、ということではないでしょうか。そのためには死ぬまで、やまいからも開放される必要があるはずです>

 <やまいは気からというように、やまいは自然現象につけられた名称であって、わたしたちの頭のなかや観念のうちにしか存在しない、とみることも可能です。したがってもしわたしたちが、がんを自然現象としてうけいれることができるなら、がんによる死はふつう自然で平和ですから、がんにおいてこそ、やまいという観念から死ぬまで解放されるのではないでしょうか>

 僕は医者っていうのはウソつきなもんだと思っていたけど、この人はまーじつに正直な人だね。若干、惻隠の情に欠けるきらいはあるけどね。僕は好きだな、こういう論理的な医者は。話がわかり易くていいや。

 患者 患者を絶望に叩きおとす医者がですか。

 ソクラテス なに言ってんだい、君、これ最高の救済なんだぜ。

 患者 とても理解できない。

 ソクラテス いいかね。人は必ず死ぬということを君は認めるね。

 患者 ええ。

 ソクラテス 必ず死ぬというそのことにおいては、がんであろうがなかろうが同じだね。

 患者 ええーー。

 ソクラテス それなら、がんで死ぬ、ということも、ないわけじゃないか。がんだからといって絶望する理由なんか、何もないじゃないか。よりによって君ひとりが死ぬわけではないのだよ。だから、これは立派な救済なのだ。こんなこと言ってくれる医者はめったにいないよ。普通は、こんなこと言っちゃったら、商売にならないんだから。

 患者 だって、医者が治療を放棄したら、他に仕事なんかないじゃないですか。

 ソクラテス そうだ、ないのだ、医者に仕事なんか、ほんとはないのだ。医者なんてものは、いてもいなくてもほんとはいいのだ。なんでみんな医者なんてものを、あんなに信じてるのか、僕は以前から不思議なんだがね。あんな詐欺まがいの商売で、しかも尊敬されてるなんて、妙なことだと思わんかね。

 患者 わかりません。

 ソクラテス 人が死ぬのを恐がるところにつけ込んで、人が死ぬことなんか金輪際ないかのように言って金を取るなんぞ、詐欺以外の何ものでもないと僕は思う。
 (中略)

 ソクラテス 哲学では病気も治せなきゃ、人を死からも救えもしない。そのかわり、哲学は、人は必ず死ぬということを明らかに認識する。そして死とは何かを認識する。科学なんてものに、死とは何かが認識できると思うかね。
 (中略)

 ソクラテス 死とはなんなのだ。

 患者 私がいなくなること。

 ソクラテス 私とは誰だ。

 患者 私です。

 ソクラテス 死ぬといなくなるんだね。

 患者 そうです。

 ソクラテス それならばなぜ死が恐いのだ。

 患者 私がいなくなるからです。

 ソクラテス いない私がなぜ恐がるのだ。

 患者 いなくなることが、いま恐いのです。

 ソクラテス 無になることが、恐いのだね。

 患者 そうです。

 ソクラテス 無が恐いのだね。

 患者 そうです。

 ソクラテス 無は、無いじゃないか。ありもしないものが、なぜ恐いのだ。

 患者 しかしーー。

 ソクラテス 人類始まって以来の大錯覚だ。かくなる大錯覚、大錯誤のうえに平然とのさばり、人びとの恐怖心をいよいよ煽ることで、金もうけしてきたような医学なんて科学は、そろそろ自ら滅びるときだ。化けの皮の剥がれるときだ。医学が科学なら、なぜ、ありもしないものを恐れるのだ、ありもしないものと闘おうとするのだ。そんな医者は科学者じゃない、あれらはみんなまじない師なのだ。ありもしないお化けに怯えるまじない師なのだ。治らないものを治ると言い、死ぬものを死なないと言う、まじないの護符には「科学」と書いてある。しかし、死とは何かを知らない科学に、人を救うことなど実はできはしないのだ。科学にできるのは、わけもわからず生き延ばすことだけなのだ。無理矢理でもなんでもかまわないのだ。さてさて、患者は救われたというべきか、否か。人間にとって幸福とは何か。

  ふむ、どうやっても、やっぱり最後は哲学の議論だね。どうかね、君は、いかなる手段によっても、いかなる状態になっても、ただ長く生きることを幸福と、やはり考えるのかね。
 (後略)

*****

 ソクラテスの言っていることを「その通り」と思い、また、がんは自然現象だと思ってあるがままに生きて死ぬのは、DNAに逆らっているのでしょうか。人間は生物なのに自然現象に逆らうDNAをもっているのは不思議ですね。動物のDNAは死を自然現象と認めているのでしょう?
 

Dr.A より 4.23

 こんばんは。すいません。難しくしちゃって。

 ソクラテスの意見すなわち池田さんに賛成です。誰でも納得するように思いますが、一般に人間は死を受け入れないのですね。数日マスコミを賑わせている俳優の死にもソクラテスとは反対の評価のようです。弟子のプラトンの国家論も、いたずらに生に執着することを否定していたように記憶しています。

 DNAは染色体を創り、細胞を創って生物を進化させてきましたから、やすやすとは死なせないでしょう。そこで、DNAの支配を拒むsubjectの重要性が増すのですね。主体とは自己や死を意識する理性のことかな。あまり難しく考えないでくださいね。ただ、DNAは化石からも採取されるように、とにかく長持ちというか、タフで生き続けるのですね。意思はないと思うけど、そういうメカニズムで生命体を操作しているでしょう。

 生き続けたい人は、DNAのロボットスーツみたいなものですね。一方、癌には癌のDNAがあり、テロメアを変化させて細胞を不死化しているのです。個体に乗って生き続けさせようとするDNAは癌のDNAと戦っているでしょうが、いつまでも同じ個体に住み続けるよりも乗り換えようとするのですね。子孫をつくらせたり、ヴィールスを利用して他人に移動したりしています。結局、個体は不死化した癌に負けてしまうのですが、普通の細胞が残って生きている間はDNAは個体に鞭打つのでしょう。死を認められない人々はほとんどがこういうケースでしょう。

 池田さんの医者も病院もいらないという意見、医療は詐欺だという意見に私は大賛成です。死を認めない世の中には通らない考えではありますが。
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by lumokurago | 2011-04-25 10:44 | Dr.Aとの往復メール