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痛みについてはまだ様子をみようと思っていたのですが、Dr.Kが来週末から2週間の休暇に入ってしまうため、結局、今日診察に行ってきました。肺、肝臓などのCT検査と骨の検査をすることになりました。子猫もいるし、家も建て替えるしで、いまの状態を知っておこうと思います。CT検査の結果は、休暇に入るまえの来週水曜日、骨の検査の結果は、21日に教えてくれる予定です。
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by lumokurago
| 2011-09-30 18:29
| 転移がんの治療(無治療)
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![]() ![]() ![]() こんにちは。 ベッドの上に乗せて体を支えてくれていたジャンボクッションに兄ちゃんがおしっこをしてしまったので、不便な暮らしをしています。でも、椅子に座っていられるので、サイドテーブルの前に食卓の椅子を持ってきて、ワープロを打つことができ、これが非常に快適です。しばらくの間、ジャンボクッションは使わず(兄ちゃんが忘れるまで)、この暮らしで行こうと思っています。背中の筋肉痛(たぶん)がつづいているので(腰は湿布でよくなりました)、ベッドに横になって本を読んでいます。さっき、オキシコンチンを飲みました(肋骨への転移のせいだとしてももう放射線はかけられないので痛み止めで対処)。 この1週間ほど、2匹を隠さずにチャー吉を部屋に入れているのですが、なんとか共生できそうです。2匹のほうは大いにチャー吉を意識してにおいをかぎに行ったり、兄ちゃんなど勇気をだして(日頃のおっとりからは考えられない)猫パンチを繰り出したりしましたが(写真)、チャー吉のほうは我関せずでゆったり眠っていきます。チビ猫だと思ってバカにしているのかもしれません。懸案事項が解決しそうなのでほっとしています。 もう1匹の食べにくるだけでなつかないし、ほかでももらっているので、来なくなっても仕方がないと思っていた猫もまだ来ています。ものすごくふとっています。 『ガダルカナル』読みました。軍隊用語でわからない言葉があったり、第○○隊とか、覚えきれないし、悲惨な結果の繰り返しなので読みにくかったです。「あとがき」がとてもよかったです。半藤一利さんの本にもありましたが、「起きてほしくないことは起きないと信じ込む」「間違いから何も学ばず、同じ間違いを何度でも繰り返す」ところ、いまも変わっていませんね。原発事故も同じです。昨日は大きな集会とデモがありました。新聞もさすがに報道していました。なんとかつづいてほしいです。 渡辺容子 9.20 こんばんは。 猫の写真有難うございます。 幸せな家庭の団欒を想像させますね。 猫の写真は心が和みます。 ついに当方書斎の猫(兄ちゃんの姉か妹)の貰い手が現れました。 これが里親探しの最後になりそうです。 周りのオス猫も捕まえ去勢しましたので、私の仕事も 終了です。アフターケアとして、子猫を奪われ避妊手術されたメス猫、 去勢されたオス猫に餌を与えています。せめてもの罪滅ぼしですね。 オス猫は縄張りおしっこをしますから、そろそろ兄ちゃんは 去勢の時期に達しているのかもしれません。 十月は避妊と去勢の手術が必要かも。遅くても 十一月には手術をしてください。 日本は戦争遂行の体力がなかったにもかかわらず、 開戦し、戦術は戦力の逐次投入という拙劣なもので、 兵は精神主義的消耗戦を強いられ、最後は哀れ餓死でした。 天皇、政府、軍参謀、みな責任を取らず、無責任の極みで、 国民に犠牲を強いるという。原発をめぐる諸状況も同じですね。 現天皇は象徴で無関係でしょうが、政治屋や官僚達は根本的解決を避けている。 日本は昔も今も同じです。 オキシコンチンに慣れていくのはいいですね。いざというときモルヒネの注射が 使えます。なんとか現状維持で持ちこたえてください。但し精神主義ではなく。 網野 9.20 こんばんは。昨日は強風のためか、ネットがつながりませんでした。電話回線をやめて入院しても使えるモバイルに替えたのです。今日の午後、つながりました。 最後の猫がもらわれてしまったら、さびしくなりますね。先生のところで使っていた野良猫を捕獲する罠はどんなものですか? うちでもできればチャー吉の手術をしたいのと、友人宅で先生のところと同じような状況になっているのです。 兄ちゃんが今朝、また吐きました。吐いたもののなかに糸のような長い虫が3匹いたので、獣医さんに聞いたところ、回虫とのことで、虫下しを飲ませてくれました。ネズミの刺し身のせいじゃなかったみたいですね。その医者は去勢手術は8ヶ月以降と言っています。兄ちゃん(本名ニイニイ)の誕生日を6月1日、チビ(本名ミュウ――獣医で名前を聞かれ「チビ」と答えたら、すぐに大きくなるのだから変だと言われ、「シマ」はどうかと提案されましたー笑ー)は6月15日に決めましたが、その日でいいですか。 なにがあっても日本人の習性が変わらないのは、なぜでしょう。変わらないから「習性」か。戦中生まれの友人は「教育」だと言っていますが、その教育を変えようとしないんですもんね。結局、自由を求める人がほとんどいないせいだと思います。 父の本はほとんど処分してしまったのですが、残っていたなかに「夜と霧」があって、はじめて読みました。徐京植さんが原発事故の被害者は「根こぎ」になっていると指摘して、私も同じだと思いました。そうしたら「夜と霧」のなかに、強制収容所における囚人の存在は「期限なき仮りの状態」と定義される、とありました。 「ラテン語のfinisという言葉は周知のごとく二つの意味をもっている。すなわち終りということと目的ということである。ところで彼の(仮の)存在形式の終りを見究めることのできない人間は、また目的に向って生きることもできないのである。彼は普通の人間がするように将来に向って存在するということはもはやできないのである」 強制収容所の囚人と自分のいまの状態を比べるのもおかしな話ではありますが、私にはこの記述がよくわかります。終りを見究めようとしていたのに、寿命が延びたので中途半端なのです。将来に向って生きることができないので、どうしても過去に向うことになり、それはそれで意味のあることではありますが、「根こぎ」になっている=浮世離れしているという気がものすごくしています。もちろん、長生きすることに文句を言っているわけではまったくありません。家を建て替えることにしたのは、目的をもてたという意味でとてもよかったし、猫をもらったことも未来につながる命をいつくしんでいるという意味でとてもよかったと思います。普通の人よりもかなり先が見えている「限りあるいのち」をどう生きていくのか、考えています。 渡辺容子 9.22 こんばんは。 インターネットは無線でするのですか。 便利のようでしたら教えてください。 兄ちゃんと書斎の猫、ちびねこ姉妹は、回虫の検査と治療は なぜか行わなかったのです。獣医さんによって方針が違うようです。 ですのでちびねこ達の糞の検査を行ったほうが良いかもしれません。 夜と霧は名著ですね。人間の価値について考えさせます。何人にも 奪うことのできないという態度的価値は永遠不滅の言葉だと思います。 捕獲器は猫用は売っていないそうです。代用として、アライグマ用を 購入しました。ネット販売されています。少し大きいので子猫は捕まえられません。 子猫は、見張っていて手動で捕まえます。 会社名サージミヤワキ 商品は輸入品でlive animal cage trapと箱に書かれています。 電話0133-25-2222 まずは、ネットで調べることをおすすめします。 網野 9.22 animaltrapですが、二つありますので、 ひとつ差し上げます。実は、獣医さんに プレゼントすることになっていたのですが、 二つは必要ないだろうということになりました。 網野 9.23 さきほどはどうもありがとうございました。軽トラが運転できるようになってよかったですね。電気自動車、せっかく改造したのにもったいないけど。ギターはどうですか? 私は明日、ピアノ演奏を頼まれたのを「無理」と断ったのですが、ある人のしのぶ会なので、簡単で短いノクターンならできるかと今日急に弾いてみたのですが、やはり無理そうでした。楽譜と鍵盤を交互に見ていると頭がぐらぐらして大変です。背骨が歪んでいるということがこんなに不便とは。 兄ちゃんが隠れてしまったのは残念でした。あのとき、私に抱かれて甘えていたので、「お父さんが来るよ。お父さんに捕まえてもらわなければいまごろ野良猫だったよ。いのちの恩人だよ」と言い聞かせていたのですが。兄ちゃんは倍くらいに大きくなりました。チビはあまり大きくなりません。メスだからかな。 チビのサバイバル能力はすごく、今日はビニールに入っていた菓子パンを猫部屋まで運び、食べていました。うちは10匹くらい猫を飼いましたがこんな猫ははじめてです。エサをだしていても、新しい袋を破ってそっちから食べてしまいます。兄ちゃんはチビについていかなければ! 渡辺容子 9.24 兄ちゃんに会えなかったのは残念でした。 ちびは幸せそう。 言い忘れたのですが、罠に捕まると恐怖で 失禁する猫がいます。ペットシーツを罠の中に敷き、 さらに外側にも敷きましょう。そして、外側から風呂敷のような布で 厳重にくるむと、観念するようです。 網野 9.24 ***** というわけで、うちに罠が来たのですが、実際みてみると、こわい。チャー吉をこれで捕まえるのはかわいそう。なんとかバスケットに入れて連れていくわけにはいかないか、獣医に相談しなくちゃ、というところです。 また私の「諸事情」は痛みとジャンボクッションが使えないことだったわけですが、だんだんよくなっていますのでご心配なく。 ■
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by lumokurago
| 2011-09-28 19:18
| ねこと鳥 (cats&birds)
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これは特に工房うむきさんに読んでほしくて掲載します。
(前略・中略) 児童館で今度「秋まつり」というのをやることになっていて、そこには子どもたちが自分で作った物をお店の品物としてだすのです。その中に紙粘土で作るグループがあり、児童館の職員がかわいい(?)ネコやイヌの型を買ってきて、「これで作ればいい」と言い、クラブの私の相手の職員も何の疑問も持たず、それでいいと信じきって、子どもたちにただ、紙粘土の型抜きをさせています。私は鳥肌が立ったけど、彼女たちがそれでいいと信じきっているので、口が出せず・・・今頃頭に来ているわけです。 どんなに下手でも子どもが自分で作った物の方がいい! みんな同じ型抜きだなんて。なんてバカにした話なんだ。「ダンゴ」でも作った方がまだいい。ダンゴだってその子によって大きさも形も違うはずだから。その子の表情が出るはずだから。 うちの両親がこの話を聞いたら、怒るだろうな。私はぬりえが好きだったのに、うちの父は断固としてぬりえを禁止していたのです。どんなに下手でも自分で描けと言って。 児童館や学童クラブでは、おたよりに市販のカット集からそれらしいかわいらしいカットを写して載せることが普通になっています。私はそういうのは好きではありません。オリジナルを描くことができないなら、カットなんていらないと思います。 だから絵の下手な私の作る通信は字ばかり。でも<関係>のおかげで、子どもが原稿を読んでくれてカットを描いてくれます。その絵を通信に載せています。 「本」ってそうやって作るものですよね? (後略) 山口泉様 渡辺容子 1988.9.21 ■
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by lumokurago
| 2011-09-28 18:58
| 昔のミニコミ誌より
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このころ(1987年)、『負けるな子どもたち』を執筆しており、Y氏が相談に乗ってくれていたため、子どものことを書いています。
***** (前略) 私はたまに勤めている学童クラブの子どもの写真を撮ることがあります。写真はまったくの素人ですが、子どもたちの姿が美しいなと思ったとき、「写真家だったら、きっとこれを写すんじゃないかしら」と思い、撮ってみることがあるのです。 最近、ひさしぶりに子どもたちの写真を撮りたいと思ったことがありました。それは、あばれんぼうの男の子たちが「馬乗り」という遊びをしていたときのことです。「馬乗り」という遊び、ご存じですよね。私の通っていた小学校では危ないからという理由で禁止になった記憶があります。 その遊びをしているあばれんぼうたちは、体ごと解放された楽しくてたまらないという表情で、見ているだけで血が騒ぐのでした。しかし、そのように痛快なほど明るく遊んでいたのは、馬乗りがはやり始めた初めの数日間だけで、それはやがて「いじめ」に近いような形に変わっていき、私は写真を撮る機会を失ってしまいました。 Yさんも書かれていたように、アジアやアフリカの子どもたちの表情の豊かさに通ずる<契機>(それは月並みなことばでいえば「いのちの美しさ」と言えるでしょう)は、日本の子どもたちのなかにも必ず存在するはずのものであるのに、やはり日本の子どもたちは、数々の抑圧を受けるなかで、その<契機>はどこか奥深くに閉じ込められ、息もつけない状態にさせられているのだと思わずにいられません。 長谷川龍生の詩についてのYさんの感想も、よくわかります。――「悲しみ」という個個の側に還元される感情の問題としてではなく、ある種の自明の現実として互いに支え合っていこうという呼びかけを感じるのですが――というところ。 私は「かなしみ」ということばを、ひらがなまたは「哀しみ」という漢字を使って多用していた時期があります。「かなしみ」ということばで私が表現しようとしていたものが何なのか、それは、自分が抱える、どこか満たされない感じから、私には絶対にまちがっていると感じられる社会に対して、自分が何もできないのだという無力感と怒りまで・・・さまざまな感情をひっくるめてしまったことばだったのですが、そんなわかったようなわからないような感傷とは無縁なつよさが、この詩には確かにあると思います。 (中略) 去年まで、毎年年度末に、学童クラブで文集を作っていました。冬休み明けから3月初め頃までの間に、子どもたちに作文を書いてもらうのですが、ただ書くのではなく、一人ひとりの子どもと話をしながら、普段は表現していない「見えないもの」を引き出していました。それがうまくいったと思える年も、うまくいかなかったと思う年もありました。写真家だったら、子どもたちの美しい姿をシャッターを押すことで捉えるところ、私は文章(作文)を書くという作業を通じて、子どもたちの心をとらえたいと思ったのです。 しかしこの作業は、年々困難さを増しています。子どもたちがより長時間学校に拘束されるようになり、遊ぶ時間が足りないので、落ち着いて作文など書く余裕がないのです。また、まじめになって自分の心をみつめて表現するということができにくくなっています。今年はあまりに落ち着かないし、頼んでも書かないだろうと思うので、文集作りは断念するつもりです。 私たちくらいより上の世代が昔、体制に異議申し立てをしていた時には、基本的には、ことばで表現する術を心得ていたと思います。それがどんどん失われて、暴力とか違う形になっていきました。私の見ている範囲内の子どもたちもそうなのです。 最近、暴力とは何なのか、表現の一種と言えるのかと考えています。表現ではあるのでしょう。暴力を使えばおこられたり、止められたり、必ず相手を振り向かせるから。その意味ではせっぱつまった過激な表現と言えるのかもしれません。しかし、それだけ切実であるにもかかわらず、中身は何も伝わってこないのです。どう考えても子どもたちの中には、おこられること覚悟で、それでも振り向いてほしいというギリギリの気持ちがあって、暴力をふるっていると思います。おそらく無意識でしょうが。 しかし暴力では人とコミュニケートすることはできません。子どもたちは自分でもことばにできないモヤモヤした気持ちを暴力で表現し、でも、大人はその気持ちをくみ取ってくれないのでますますイライラしてエスカレートするのかもしれません。コミュニケートするためには、子どもが自分のことばを探す作業を手助けしてやる必要があるのでしょう。それをどうやってやればいいのでしょうか・・・。 これからまたいろいろなことを考えて原稿を書き直すのかと思うと、頭が痛くなってきます。でも第1稿を書きあげたことで、自分は大きく変わることができたので、今、考えているゴタゴタをなんとかまとめることができれば、またひとつ何かを乗り越えることができる、と信じてがんばることにします。 山口泉様 1987.12.20 渡辺容子 ■
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by lumokurago
| 2011-09-27 12:01
| 昔のミニコミ誌より
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経産省前ハンスト完結 「原発はおカネが降ってくるけど、町づくりの産業は育たない」 (田中龍作ジャーナル)
上関原発反対のため山口県庁前でハンストしていた若者のなかに、40代で亡くなった友人の息子がいました。今度は経産省前のハンストにも参加していました。激励に行けなくて残念。 その友人は職場の同期で、所属も近かったため、よく行き来していました。一緒に山登りもしたりして、仲良くしていたのですが、考え方の違いから疎遠になってしまいました。彼女は職場は数年で辞めて、館山で養鶏の仕事を始めました。 私が乳がんの治療をした頃、肺がんで余命いくばくもない状態だったのですが、最期までご両親にも知らせず、共通の友人が亡くなる少し前にホスピスに会いに行きました。私がそこに参加しなかったのは、友人らが乳がんのことに気を遣って知らせるのを遠慮したせいでしょうか。私は会えなかったことをいまでも悔やんでいます。 息子さんの元気な姿が見られてうれしいです。上関のハンストのとき、顔がそっくりなのですぐにわかりました。今回は名まえも載っていて、確実です。 ■
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by lumokurago
| 2011-09-26 18:07
| 原発
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見て見て! かわいいよ。前に紹介したグレちゃんが子猫たちを連れて来たんだって。猫屋敷になるのも間近、どうする? って、Dr.Aが早速野良猫捕獲器を持ってきてくれました。まずはチャー吉の去勢手術です。うまくいくでしょうか・・・。
http://purple.ap.teacup.com/umuki/165.html ■
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by lumokurago
| 2011-09-24 20:00
| ねこと鳥 (cats&birds)
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Y氏より渡辺へ 1987.12.2
(前略) そうですね。私も、日本以外のアジアやアフリカの子どもたちの姿を見るとき、あなたが書かれていたのとまったく同じ感じをもちます。いままでのところ私は、ごく限られた範囲でしか、そうした子どもたちに触れる直接体験をもってこなかったし、それ以外は映像や文章という二次的な手段を通じてしか、知っていないのですが――。そしてまた、私がそう感じたような契機は、必ず日本の子どもたちのなかにも存在しているはずだとは思うのですが――。 私の机の周囲に貼ってある何枚かの図版類のなかに、2点、子どもの写真があります。チベットの大平原で、寒風のなかを寄り添い、彼方を見つめているまだ10歳前後と思われる姉妹の写真と、ネパールの子どもの写真です。 チベットの姉妹の写真は、しばらくまえある週刊誌から見つけて切り抜いたものですが、その完結篇の方をながく中断中の私の作品――『吹雪の星の子どもたち』『翡翠の天の子どもたち』ニ部作の世界を現実の風土に移したら、たぶんこんな感じではないかと考えていた、そのイメージにごく近い思いがします。小さな切り抜き写真からさえまぎれもなく伝わってくる、その息を呑むばかりの美しさ・気高さ・・・。人間とは、こんなにも美しい存在だったのかと、改めて茫然とするような素晴らしさに、この子どもたち当人にはもちろん永久に出会うことはないはずなのに、眺めるたび、私は希望と励ましを受けるような思いがします。ただ、このしゃしんについていたキャプションのように「この世のものとも思われない」とか「まさに天使だった」(!)とかいう言い方に関しては、私は慎重にそれを排除したい気持ちがありますが――。 これは、現代の日本に生きていてアジアの問題や戦争の問題を考えようとするときにも、私が放棄したくない、あるポイントです。さらには、技術や産業の問題一般にもかかわってくるかもしれません。 先ごろの第1信では、もっぱらK書簡の問題にだけ話題が集中してしまった感がありますので、ここでもう少しまとまった形で、いただいた《暗川》についての感想を書かせていただきます。 第1号――私が目にしたなかでも、原子力発電所、というより科学技術の問題について書かれた批判のなかで、最も美しいもの、深く静かな痛みを伝えてくれるもののひとつです。原子力発電の危険性の問題よりも、ここではそれらが人間によって、人間相互の力関係や立場の違いといった視点から追求されていますが、こうした考察が、とても巨きな問題への入り口になっていることは明らかです。そうです。あなたが感じ取ったように、この世には人を人とも思わない人たちがいるし、人間にはそれができて、しかもそのことに対するほんとうの罰は、たぶんないのでしょう。そのなかで、その人たちが、あなたによって「悲しい」と感じられたことが、実はやがて、遠い回路を経て、それらの過ちに対する最も深い罰を与えられたのだと気づくまでは、少なくとも――。 第2号――略 第3号――(前略) 『モノローグ’84』は、あなたが「書く」ことがほんとうに好きなのだということがよく分かる作品のひとつでした。こうした主題で、こうした方法で書こうとするとき、誰しも“定型”から完全に脱却することは難しい要素があると思うのですが、現実の細部を丹念に拾ってゆくことと、あなたの思いを表白したいという意志とを結ぶ想像力は、じゅうぶんに見てとることができます。 第4号――この長谷川龍生の詩については、あなたの感想にも、それからあとで出てくるKの解釈にも、それぞれ共感する部分がありますが、私が人から求められて自分の意見を述べるとしたら、そのいずれともちょっと違ったものになるような気がします。説明しようとするとくどくなるのですが、もう少し醒めた、したたかな態度が、作者にはあるような気がします。人が人と出会い話さなければならないこと、それは別に自分と相手が違った存在であるからこそするものだとかではなくて、もっと全然べつの必然に迫られてどうしてもしなくてはならないものです。そして、別の意味でしなければならないそれらに絶えず介入しようとしてくる、ある幻想に対してきっぱり拒絶しようとする厳しさを、たとえば「悲しみ」という個個の側に還元される感情の問題としてではなく、ある種の自明の現実として互いに支えあっていこうという呼びかけを感じるのですが――。 『学童クラブにおける「障害児」問題を考える』(その2)(注:すみませんが未掲です)は、前回にも増して実践者としてのあなたの営みのさまざまな重みがはっきりと伝わってくる文章だと感じました。この現在の社会状況のなかで、個人の存在はますます矮小化され、ひとりひとりができることは徹底して削られ滅ぼされつつあるのですが、あなたがあなたの現場でしておられることは、私が拝察するかぎり、現実の可能性ぎりぎりのところまで近づいた、大変なことだと思います。はるかに離れて、しかもまったく位相の違うかに見える私の営みが、どこか遠い延長上の一点で交叉する瞬間がくれば・・・と思います。 第5号――(前略) 『Yちゃんの笑顔から』――私も犬が大好きです。犬の好きな子どもも好きです。ここでの養護学校義務化の問題は、私も自分の知っている範囲で考えてもき、また周囲の人びとと話し合ったりもしてきたことで、あなたの姿勢には全面的に賛意を表します。それと“障害”や“障害者”の問題は資本主義の問題であるというのは、とても重要なことです。ただし社会主義に対しても、それが現在のように資本主義に対する補完勢力としての、しかも甚だしい《国家》意識をともなったイデオロギーであるかぎり、なんの希望もありません。この問題をほんとうの生命の次元で考えられるのは、もっとまったく別の社会像のなかでしかありえないと思います。ところで、ある人に対し、複数の好きなものについて、そのどっちがより好きかを訊くのは、実は私はあまり好きではないのですが・・・。 (後略) 山口泉 1987.12.2 ■
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by lumokurago
| 2011-09-23 18:56
| 昔のミニコミ誌より
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